Goro-Sakamoto’s world

坂本吾郎(Goro)が語る。自分の考えをストックし、アウトプットしていきたい。でも考え方は変わるものなので、その時々の思考が常に最新とは限らない。

トラブルのない旅は、山頂まで車で行く登山のようなものなのか

数年の海外駐在中、用務で帰国した。

 

すぐに慣れることではあるが、周りがすべて日本語なのが新鮮で、レストラ ンでは隣の人の話が筒抜けに耳に入ってくるという感覚に、 最初違和感があった。

 

 

「その話、聞こえているよ」という感じ。

 


ところで、当時(2016年)築地市場を訪れた際に、飲食店のオジ様オバ様たちが、3か国語(もしくはそれ以上)を駆使して客を呼び込み、接客をする光景を目の当たりにした。

 

 

当然、中国語、英語、韓国語、日本語、のあたりが多い。どれくらいのレベルでできているのかはわからないが、一見、客とのやりとり程度ならば問題なさそう。

 

 

日本語が通じなければ英語に切り替え、顔が中国人ポイ時は中国語、韓国人ぽければ韓国語という具合で、少なくとも、「えーっと・ ・・」と頭の中で考えて翻訳する日本人独特の間はなく、テンポよ くコミュニケーションが取れていた。ように見えた(不思議なもので、顔だけで東アジアの三カ国はだいたいわかるんだよなー。)。

 

 

これには横から見ていて正直に驚いたとともに、商人魂を感じずにはいられなかったし、日本のインバウンドが盛り上がってきていることを現場感として目の当たりにした瞬間だった。

 


築地も浅草も二条城も外国人だらけ。

 

 

さて、仕事上付き合いのあった日本在住のマレーシア人と話した時、「日本語が話せない」と言うので、「日本にいて日本語ができないと困難な場面があるのではないか」と質問した。

 

彼はこう答えた。

「全くそのように思わない。なぜなら、標識はほぼ英語が併記してあるため迷うことはない。もちろん10年前なら違っていただろうが 。また、多くの日本人は英語が理解できる。」

 

 

私は「つまり多言語対応は、訪日者を怠惰( lazy)にしてしまう側面があるということですね」 と言ったら、「まさに言うとおりだね」 と笑って答えてくれた。

 

 

その前に、日本人が英語ができるという件、正直違和感があった。本当か?

 

 

九州の地方出身の自分としては、ほとんどの日本人は英語を話せないと思っていた。実際、周囲に英語ができる人は知り合いとか同僚とか見回すと、感覚としては10人に1人もいないくらい。

 

 

ここで問題になるのは、何をもってできると定義するかということであるが、私の理解では「英語ができない人」は、学校で習っていて知識はあるが、日常的に使ったことがほぼ100パーセントないので、「使えないと思い込んでいる人たち」のこと、だからいざという時は本当に使えない。これが私の周りには90%を超えるくらいという感覚。

 

 

話を戻すと、マレーシアにおいても、ほとんどの市民に英語が通じるため、マレーシアで生活する限り、マレー語や中国語を学ぶ必要性はそれほど感じられなかった。

 

 

本当に相互理解を深めるには、 言葉も重要な要素であると思うが、だからと言って現地語の習得に拘っていては、外国に行くことさえも躊躇してしまうだろう。

 

 

逆に、コミュニケーションの取れない不自由さを楽しむことこそが旅の目的だという人もいるだろう。

 

しかし、水一つ買うのに苦労するのでは、やはり観光そのものの目的を達成するには、一般的に言ってハードルが高いと言える。その状況を楽しめる人は一握りの人たちだけ。

 

 

その土地に住んで時間をかけて当地の言語・文化について理解を深めていくことと、短期旅行でトラブルなく過ごすということとは、 やはり訪問者にとっての目的も違えば、受け入れ側のアプローチも当然異なるということであろう。

 

ちなみに、トラブルなく過ごすことが本当に良い旅なのかどうかという価値の問題は大いに議論の余地があるところだが、ここでは触れないでおこう。

 


蕎麦をすする音に対して外国人がどのように感じるかは知らないが、世界はとっ くの昔に「郷に入っては・・・」、とばかりも言ってはいられない時代になっている。

 

 

宗教に目を向ければ、排他的で厳格な線引きを する文化も依然として存在するが、文化や観光に目を向ければ、 訪れる人には「違いを受け入れる態度」が求められるとともに、 受け入れ側には「違いを認める寛容な態度」が求められている。

 

 

この「ギャップ」を小さくすれば、相互に気持ち良い交流が可能となるということであり、その方法が、多言語対応やハラル対応など、とい ったインバウンドの取組だと思われる。

 

 

マレーシアはイスラム教の国ではあるが、時と場所を選べば、豚肉やお酒も許容されている点で不自由はない。

 

 

一方で、時間にルーズ(口約束は守らない)、 公衆トイレが汚い、交通マナーが悪すぎるなど、大いに「 ギャップ」を感じる場面はまだまだ多く、これは自分の外国人としてみた際の受容力の側に問題があるということなのだろうと、この文章を書きながら自省の念に駆られた次第。

 

 

繰り返すが、「ギャップ」が大きい方が旅の思い出は色濃く残るという意味では、やはり旅の目的、何を得るか、といった価値問題については議論の余地がある。

 

By Goro

電池切れのポエム

午前中、執務室で仕事して午後から軽く隣県まで電車で出張。

 

 

今は電車の中だ。

 

電車では本を読むのが好きで、駅で本屋さんに行き、お供を探す。

 

 

でも時間ギリギリになり、選ぶ時間が確保できず、結局買わずに乗ってしまった。

 

 

ならばいつもカバンに忍ばせている本を読めば良い。

 

でも買った瞬間の、あの読みたい衝動の勢いで読破する感じが好きだったりもする。

 

 

そんなこんなで、気乗りせず携帯でニュースでも読み漁ろうかと画面を見ると、充電が30%となっている。

 

 

30%?

 

なぜ?

 

 

今朝は100%だったはずだよ。

 

 

iPhoneによくある、電池系のトラブルか?

 

 

まあいい。携帯はお預けだ。

カバンに忍ばせたカラマーゾフの兄弟でも読んでおこう。

 

 

と、行きはそれでよかった。

 

 

今、帰りの電車だ。

 

充電の残りは11%にまで減っている。

 

 

ここで携帯を使うべきではない。本を読んで過ごせ、俺。

 

しかし、こんな隙間時間に何か書くのも悪くない、と思ってブログを書くことを思いつく。

 

そんなこんなしている間に10%に減っている。

 

そりゃあ当然だ、触れば触るほど減る。

 

 

わかってはいる、が、そんな極限状態の中で生まれる文章があるに違いない。

 

根拠なくそう確信し、筆を進めている。

 

 

だが、なかなか出てこない。その極限状況にのみ発揮されるという伝説の文章が。

 

そもそもこのブログは一筆書きだ。何か思いついたからと計画通りに書くこともあれば、行き先がわからないまま走り出して事故ることだってあるかもしれない。

 

 

それでもやっぱり行かなければ見えない景色があるのだ。

 

 

だから行け。

 

充電がなくなってしまっても構わないんだ。そん時は投稿ができないだけだ。もともとなかったものができなくたって、誰にも気づかれないだけ。そもそもそんなに読まれていない。だから何の損失もない。

 

 

だがわかっている。この発想はよくない。それは痛くわかっている。

 

そう思うからこそあえて書くのだ。

 

つまり、もともと無いのだから何もしなくても変わらない、という発想ならば、誰も何もしなくていいし、人間生活もしなくていいし、社会は回らなくていいし、国の発展もしなくていいという理屈になる。そもそも存在しなくていいと。そこにあるのは虚無の世界、つまり、なにもないということ。

 

そうではないのだ。

 

何も無い時にこそ何かを生み出す発想が必要であり、今この変化の激しい時代に特に求められるマインドセットなのだ。

 

 

そんなことを、充電が7%に減る間に考えながら、電池が切れることよりも、何かしらのアウトプットになればとの思いで、ここまで来た。

 

 

この記事ですでに1000文字を超えた。

だから、あとはどこに到達しても良いという気持ちになった。ああ楽だ。

 

 

もし俺が、ここで何かを書く決心をしなければ、携帯こそ死なかったかもしれないが、そこには何もせずに居眠りした哀愁漂うおっさんの姿があったのかもしれない。

 

そしてブログのネタがないネタがないと嘆き、ついに書くのが億劫になる姿も思い浮かぶ。

 

だが、俺はそれを回避した。少なくとも今回だけは回避できた。

 

充電はまだ7%のままだ。

 

さ、これからでも遅くは無い。

 

本を読もう。

 

By Goro

自給自足生活

アサリが取れる海岸があるというので行ってみた。

 

潮干狩りだ。

 

潮干狩りといえば小さい頃に家族で連れられて船に乗って行った干潟のイメージだった。

 

その時に何をとったのか、どうやって取ったのか、何を思ったのかは全く覚えていない。覚えていることといえば、船の穴からおしっこを垂れ流したことが楽しかったということだけだ。

 

そんな潮干狩りに、姉さん家族に誘われたので行ってみた。

 

潟ではない。

福岡県の雁ノ巣海岸だ。

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もちろん干潮時刻に合わせて行くのだが、最初は帰りの時間が遅くなるのではないか、といういかにも大人の都合のみを心配していた。反対に、もちろん子供達はノリノリだ。

 

駐車場からスポットまでは20分くらい歩くのであるが、その間に通る海岸は、何か赤い藻のような植物の残骸が何かで覆われていた。ここに足を入れるのはきつそう、そう思いながらテクテクとついて行く。

 

永遠に続くように思われた赤い藻エリアを抜けると、知る人ぞ知る潮干狩りスポットが広がる。徒歩移動、約1キロ強か、あるいは2キロあったかもしれない。そこには沢山の先客がいた。

 

全身長靴、かごのリュック、中腰になるのを避けるための椅子など、経験と熟練具合によって装備も洗練されているようだ。簡易テントを広げ、今日はここで一日過ごす気できたかのようなファミリーもいる。

 

うちは、バケツと網ボール、クーラーボックス。あとはまだ冷たさの残る海に、ズボンをまくってぽちゃぽちゃと、入って行く。

 

手で5センチくらい掘ってかき回すと、石みたいなのがあるからそれを取ってみて

 

言われるがママにやってみたら、ゴロゴロ取れた。そこら中にいる。イスギ!めちゃくちゃ取れる。

 

もちろん、子供達もお尻まで濡らしながら、ひたすら取る。これ大きいよー!とか、これは赤ちゃんだから逃がそう!とか、といちいち報告してくれる。飽きたら砂浜でお風呂みたいな囲いを作って遊ぶ。

 

つくづく、子供は遊びの天才だと思う。放置したら多分倒れるまで遊び倒すだろう。いい加減という自制は効かない。

 

アサリはというと、軽く1時間程度でバケツ二杯分を捕獲。

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これ以上取っても、この距離を歩いて運べない。駐車場から遠いのだ。だから手で運べる量ギリギリいっぱいが取れたら止める、という感じだ。

 

この光景から、原始時代の人間の営みが想像できた。

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自然の遊びは気づきがいっぱい。

どんな教科書よりも優れた教材だ。

 

例えば、アサリを手にとってみると、全ての個体の柄が異なることに気づく。

 

さらに目を凝らすと、デザインの一つ一つが、機械的にドットで描かれているように見える。芸術的だ。

 

DNAに柄の型が刻まれているのかどうかは知らない。波や水温、その他の環境によって個体差が出るのかどうかも知らない。

 

確実に言えることは、どれ1つとして同じ柄がないということ。

 

種としてのアサリ貝全体を統括する集中管理室に置かれるAIが、貝の個体1つ1つの柄の元になるドットの座標をランダムに選択し、生まれるタイミングで1つ1つに、割り当てて行く。

 

割り当てられた貝は、これが俺の柄か、と受け入れる認識はなく、そのような管理がされていることも知らずに、地球の海に放り出され、ただただ集中管理室で入力されたプログラムに従って、貝としての一生を全うしようとするだけだ。

 

そこには自由意志などない。もちろん反発もない。ただ、無意識に埋め込まれた命令に従うだけ。

 

そのような認識もないため、貝は、ただそこに存在している、というほかに存在理由も疑問も何もない。ただそこにあるという状態。

 

もちろん貝の中に、集中管理室の存在に気付くものはいない。

 

貝はどこから来てどこに行くのか、この1つ1つの、個体の人生(貝だから貝生?)に一体どれほどの意味があるのか、管理室のAIは誰が何のために作ったのか。

 

自給自足生活の真似事をしただけで、アサリの柄がどのように決まるかにイマジネーションを働かせて、人間にとられて食べられるというだけの貝の運命を想い、自分の力で取った命を頂く、と行った一連の体験ができる。

 

そこで何かをリアルタイムに感じるかどうかは問題ではない。その人が、特定の体験をするときに、感受性を開くことができるかどうかはその人次第だ。

 

ただ、自給自足体験や自然の中で遊ぶというこもは、その扉が開きやすくなっているというこは間違いない。

 

だから、ひたすらに自然の中で遊ぶことを何度でもいつまでもやってきた人間は頼りになる。一緒に遊んでいて楽しいし、生きる能力が高い。

 

遊びのできる奴は仕事のできる奴、その意味がこういう時に顕著になる。

 

小さい頃から泥んこまみれでどれだけ自然の中で遊んできたか、これが人間としての生きる力、魅力と言い換えてもいい、の1つを形作るということだ。

 

親として、子供たちのために精進せねば、という思いに駆られた。

 

By Goro

桜の季節と会計年度

サクラは日本人に馴染みが深い。日本で観賞用として植えられているサクラの多くはソメイヨシノだ。海外では、cherry blossom と呼ばずにsakuraと呼ばれることもあるほど日本文化と桜はセットで語られる。

 

その桜は、だいたい3月末から4月の頭にかけて、パッと咲いてパッと散る。その潔さから、

命の儚さ、諸行無常といった日本特有の人生観が生まれた。

 

その歴史は長く、古くから歌に詠まれ、花見の行事などが行われてきた。その心は基本的に今でも変わっていないし、日本の桜を愛でる文化は世界に広がっており、インバウンドとしても一大コンテンツとなっている。

 

そんな桜の咲く季節、その前と後とで、人々の心の持ち方はどこか違うものになるのではないか。全く違うもの、と言っても過言ではない。

 

例えば、小学校を卒業して中学に入る12歳。

 

こんな感じ。

つまり、桜が咲くまでは小学生の延長で小学生でなくなったという実感が少ないが、桜が咲く頃からは、新しい学ランを着たり、部活のことを考えたり、新しい友達のことを想像したり、中学生になるのがどこか楽しみになってくる。(嫌で嫌で仕方ない人もいるかもしれないが。。)

 

そう、ある意味では、桜によってまさに「生まれ変わる」という感覚なのだ。

 

誰が決めたかは知らないが、学校は4月に始まり、3月に終わる。桜と入学入社、出会いと別れはセットなのだ。そして会計も同じく3月に閉まる。

 

だから日本で単に年度といえば一般に4月から3月のことを指す。

 

だが、海外は違うところも多い。例えば中国では、会計は1月に始まり12月に閉じる。他方で、学校は9月に始まるらしい。

 

会計と学校がリンクしていない事がどんな感覚なのか、そこはよくわからないが、日本では、卒業、入学、入社、人事異動など、とにかく前年度と新年度では人間関係も仕事の内容も、お金の出所も、何もかもがあまりにも違う。生まれ変わるから。

 

余談だが、中国企業と仕事をしていると、こういう事情を理解しているのかしていないのかは知らないが、年度始めからガンガン連絡してきてゴールデンウィークに予定を入れようとするから恐ろしい。しかもこの令和の夜明けとなるゴールデンウィークに、日本側に対して失礼ですらある気がする。旧正月は何も動かないくせに、こちらの事情を汲もうとしない。

 

もしかしたら、ただ窓口となって対話している人がそういう人なだけかもしれないが、矢面に立つ人がこういう人だと、中国人はこういう人、というなんとなくのイメージができてしまっても仕方ない。相手に国際理解がないのと同様、こちらも一括りに中国人は、というレッテル貼りをしてしまい、国際理解というコンセプトとは程遠い感情が沸き起こる。

 

話が逸れた。

 

年度の区切りから逆算すると、大学の入試はだいたい冬になる。そして、雪で公共交通機関が止まったりして受験に影響が出る事もある。そして毎年ニュースになる。

 

ならばいっそ、学校を9月始まりに変えてしまうというのはどうだろう?

 

そしたら受験の季節が梅雨とか真夏の盛りになるのかな?でも雪で止まるよりはマシかも。だが、入学の時の、あの桜に包まれた暖かな季節感とめでたさは半減か。総じて、メリットよりデメリットが大きいのかな。

 

 

まあいい。

 

いずれにしても、別に変えるべきとまで思っているわけでもない。加えて、もしそんなことを主張したとしても、桜の時期に重なった既存のいろいろなサイクルを変えることに大きな抵抗があるだろうことが予想できる。

 

日本では、何を変えるにしても必ず大きな批判が巻き起こり、そして変化のスピードがめちゃくちゃ遅いのだ。

 

変わらない美しい伝統や文化と、変わるべき日本のマインドセット、この、一体化したようでチグハグ、かつ相反しているような自己矛盾を克服し、課題先進国として世界の変化と国家レベルの課題に立ち向かっていかなければならない。

 

もちろん、このことと、会計、学校の年度云々との関連は全くないし、変えるべきという主張でもない。

 

桜は花に顕われる

 

生まれ変わったタイミングで、新たな自分の得意分野を開拓したり、環境が分かることで見えてくる自分らしさに気づけるのも、この季節なのかもしれない。

 

 

By Goro

 

統一地方選挙での連呼行為

小さな頃から、選挙になると選挙カーが田舎の隅々まで走ってきて、候補者の名前を連呼して去っていく。本人ではなく、アルバイトや事務所の協力者たちが乗る車の中からだ。

 

 

うるさいと。

 

 

これ以外に浮かぶ言葉がない。

 

 

こんな滑稽な選挙戦を強いられる候補者、というか、これをやらずには勝てないからやるのだろうか?

 

 

それとも、頑張っている姿((這いつくばって汗水垂らして、ダサい姿)をあえて見せることで、庶民に寄り添う政治、というイメージでも刷り込みたいのだろうか?あるいは、単純に名前を覚えてもらうためのサブリミナル効果を狙ってのことだろうか?

 

 

潜在意識のレベルでどのように働くかは専門家に委ねるとして、理屈と感情論だけで述べるとすれば、うるさいと思った時に聞いた候補者に対しては、イラつく。

 

 

 福祉、子育て、雇用の確保などなど、なんとなく耳あたりの良いことを並べとけ。原発反対、辺野古埋め立て反対、オスプレイ反対、地域に関わる国策問題には反対しとけ。

 

そんな哲学のない選挙戦になっていないか。

 

 

名前の連呼行為の効果は知らんけど、なんでみんなが揃いも揃って同じ戦い方をするのか、ちょっと調べてみたら、原因は公職選挙法にあった。

 

 

(連呼行為の禁止)
第140条の2 何人も、選挙運動のため、連呼行為をすることができない。ただし、演説会場及び街頭演説(演説を含む。)の場所においてする場合並びに午前八時から午後八時までの間に限り、次条の規定により選挙運動のために使用される自動車又は船舶の上においてする場合は、この限りでない

 

 

 

これだ。赤字部分だけ読めばいい。

法律がそもそも、街宣カーで連呼行為をすることを想定した作りになっている

 

 

こんなにテクノロジーの発達した国で、こんなに時代遅れのアナログな選挙を展開しないといけないのは一体どういうわけだ。

 

 

若者が選挙や政治家に抱くイメージが悪くなり、結果として投票率が低くなる遠因の一つと言っても過言ではないのではないか?

 

 

おっさん政治家におっさん票ばっかりが集まる日本の政治では、若者の票や意見に関心があるわけもなければ、若者が投票しないのはかえって好都合なのではないか?

 

 

アメリカ人に、日本の選挙の連呼行為についてどう思うか、と聞いたことがあるが、揃って嘲笑を浮かべながらこう述べる。

 

 

馬鹿げている

 

 

ちなみに、マレーシアでは、それはもう露骨で、政党が金をばらまいて票を買うとか。

 

 

なんだか清々しささえ感じるね。

 

これがいいか悪いかといえば、多分悪いのだろうけども。だからと言って、なんでも清廉潔白が常に正義で絶対的な善であるとまで言ってしまうと、世の中の全てのことがその時々の価値観によって画一化されてしまう。

 

 

日本という国はそういう国なのではないだろうか?

無意識的に常に全体主義的。

お上なんて言っている時点で、もう思考停止である。

 

だからこそ、自然災害が起こると行政に不満の矛先が向くのだ。

 

 

日本独特の文化や習慣でも、小さな頃から周りに日本人しかいない環境で周囲に合わせることが良いことと教えられ、その上、海外にもあまり出たことがなければ、この違和感には気づくことさえないのかもしれない。

 

 

よーく目を凝らして国際的な視点から俯瞰してみれば、選挙に限らず、日本のいろんなところに奇妙な光景がまだまだ見つかるかもしれない。

 

 

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飲みニケーションの功罪

飲みニケーションって何?

 

いわゆる飲みニケーションには、酒を飲んでいい気分になって、上司や同僚の間で、本音を言えたり心理的距離が縮まったり、あるいは、時には仕事の話が解決したり、そのようなプラスの側面があるのは事実だろう。

 

 

だが、会社の中ではどうか?昨日飲み会でワイワイ騒いで、心理的距離が縮まったからといって、今日の仕事で何か影響があるのか?

 

まさか、昨日は楽しかったからこの案件を進めることにしよう、などという管理職はいないだろう。 また、案件を進めるのに、飲みの場でなければ言い出せないということもないだろう。

 

 

もし、そういう切り出し方をしていたら、「なんでお前はこんな時にそれを言うんだ」「ドサクサ紛れの相談は戦略的な手続きとは言えないし、酒に任せて相談するなんざ姑息だ」と、余計に心象を悪くすることすらある。

 

 

これは、本当にある。 そうなると、進むものも進まない。

 

 

また、いつまでもだらだらと遅くまで飲み続ける日本人は、単純に体に悪い。 眠いし、二日酔いになる。それで会社休んだりしていては、もうビジネスパーソンとして、恥ずかしい。さらには、家族との関係がうまくいくのか、という視点も必要だ。遅くなって家事ができないと、妻の不満が溜まる。

 

 

このように、飲みニケーションと言われるものに、どれほどのメリットがあるのか、何でもかんでも参加している人は問い直してみるのもいいかもしれない。

 

 

要するに

  • その時に楽しい思いができる
  • 酔って気持ちいい
  • ストレス発散になる
  • 知らない人と話ができた
  • 秘密情報が入手できた

といったメリットがあるとすれば、逆に

  • 二日酔いでしんどい
  • 遅くなって妻との関係を損ねた
  • 付き合いとはいえ、時間の無駄だった
  • 気が大きくなって言わなくていいことまで言ってしまった
  • てか、行きたくねーし

などなど、ちょっとしたリスクが潜んでいるということも忘れない方がいい。

 

ちなみにウィキペディアによると飲みニケーションは次のように説明されている。

 

 

酔った勢いで互いが馴れ合ったり親密な会話ができるようになるということを目的として行われている。企業の中には飲みニケーションを行うということを奨励している所も存在しており、これを行うための手当を支給しているというところも存在する。だが一方で、飲みニケーションの場で部下に説教をしたり、行きたくないと思う者を強制的に参加させるということがパワーハラスメントであるなどと否定的な見方も存在する。

 

 

日本の会社では会議だミーティングだ、決められない人が集まってあーだこーだとやっている間、オランダでは、フューチャーセンターと言われる脳の働きに基づく場づくりに取り組んでいて、こうした無駄や非効率を根本的なところから見直していこうという取り組みが盛んだ。

 

 

(こちら、参考記事)

 

 

こういうことをやった上での飲みニケーションであれば、実にいい。

 

 

会社でギクシャクとストレス溜めておいて、飲み会では無礼講といってその場限りの宴を楽しむ。これって、叩いてさすったら元どおり、とか、病気になったら薬飲めばいい、とか、太ったら食事制限、とかそんな発想に近い気がするのだ。そうではなくて、叩かないでいい良好な関係が望ましいし、病気にならない生活習慣と、太らない適度な運動、こういうものを最初から予防的にやっていく方が絶対的に健全なわけだ。

 

 

飲みニケーションから、終身雇用型、年功序列型の日本組織はいつまでたっても変われない理由の一端が垣間見えた気がした。

 

 

個人の尊重、自由な生き方、好きなように生きる、働き方改革といった価値が叫ばれて久しいが、組織に入れば、そのようなものは単なる美辞麗句であって、個人を本当に大切にしている会社というのは、もしかしたらまだ少ないのかもしれない。

 

 

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丸裸になれ

人前でいかに自分を全てさらけ出すことができるか。

 

その上で、相手の警戒心を解きほぐし、本音を引き出すか。

 

もっと言えば、「お前となら仕事してもいい」と言ってもらえるか。

 

それができれば、人間関係において最強だし、仕事人として圧倒的な強みになるはずだ。

 

今、箕輪厚介さんの本「死ぬこと以外かすり傷」を読んでいる。

 

彼は、決して周りに同調しないし、常に自然体でぶつかる。

 

そして人の懐に飛び込んで仲間を増やす。いや、勝手に増えていく、のかもしれない。

 

もしかしたらその過程で嫌われてしまうことがあるかもしれないが、そんなことは気にしない。

 

仮面をかぶって好かれるよりも、自然体で嫌われた方がいい。

 

結果的に、その方が人からよっぽど好かれるし、実現できる仕事の幅もでっかくなる。

 

一方、一般の会社では、必ず上司の決裁が必要になることから、単独で外出先で勝手にコミットしてきたら、「独善的な仕事の仕方はやめましょう」とか、「組織で仕事しているんだから個人プレーは良くない」とか、「協調性がなく、チームの和を乱す奴」といった評価に繋がる。

 

つまり、組織においては、自分をさらけ出すことは悪いこと、と、評価される可能性が極めて高い。

 

小学生の時からそのような同調することが良いこと、という教育を受けてきたから無理もない。

 

だが、一度冷静になると、私生活の中で、そう思われたからと言って何の支障もないし、どうでもいい。心の底からそう思える。

 

特に仲良くもない知り合いの集団の中で、そう思われることにより失うものなど1つもない。全くない。本当にない。

 

では、なぜ仕事になると、こうした評価を恐れてしまうのか。

 

実際、このような評価を受けると、仕事が振られなくなり、できる裁量が減るからだろうか。

 

そしたら職場に居づらくなるからか?

 

給料が減るからか?

 

やりたいことがますますできなくなるからか?

 

このような発想をしている時点で、組織にしがみついているということであり、この考えは変えなければならない。

 

ちなみに、孔子の言葉に、和して同ぜず、というものがあるが、決して周囲に合わせることが良いこととされているわけではない。

 

正しいことをしたければ偉くなれ

 

これは正しいか?

 

 

たしかに大組織の中で常に反発して戦っていても、独りよがりで勝てるわけはない。潰されて終わる。

 

だったら嫌なことを飲み込んで、我慢して我慢して上司の機嫌をとって偉くなるというのも1つの考え方である。

 

でもなんだか、これもひと昔前の考え方で、少し古い感じがする。終身雇用が前提の哲学かな、という気すらする。

 

踊る大捜査線だし。

 

とはいえやっぱり組織の中で一人で戦うのって、ものすごいエネルギーが必要で、そのこと自体が何も生み出さないとすれば、戦う意味があまりない。

 

ならば戦わなくていいように辞めるか?

 

正直、答えはわからない。

 

しかし、箕輪さんの行動原理から言わせれば、おそらく、結果で示せ、ということだろう。

 

あーだこーだとウダウダ言ってないで、さっさと動いて数字で結果を出して、オンリーワンになってしまえ、そしたら、あなたに反対する人間はだんだん減ってくるし、お前がいうならしょうがない、と言って動いてくれる味方が増えてくる。

 

そのためにやるべきこと、そこを考えるのだ。組織のダメなところ、上司のダメなところを指摘するだけの評論家になってはいけない。

 

行動と結果で示し、あなたの発言が正しいと思われるようになるまで、とにかくやれ!

 

今いるところで頭角を現せない者が、環境を変えたからといって何者にもなれない、その可能性が高いということだろう。

 

By Goro