自給自足生活
アサリが取れる海岸があるというので行ってみた。
潮干狩りだ。
潮干狩りといえば小さい頃に家族で連れられて船に乗って行った干潟のイメージだった。
その時に何をとったのか、どうやって取ったのか、何を思ったのかは全く覚えていない。覚えていることといえば、船の穴からおしっこを垂れ流したことが楽しかったということだけだ。
そんな潮干狩りに、姉さん家族に誘われたので行ってみた。
潟ではない。
福岡県の雁ノ巣海岸だ。
もちろん干潮時刻に合わせて行くのだが、最初は帰りの時間が遅くなるのではないか、といういかにも大人の都合のみを心配していた。反対に、もちろん子供達はノリノリだ。
駐車場からスポットまでは20分くらい歩くのであるが、その間に通る海岸は、何か赤い藻のような植物の残骸が何かで覆われていた。ここに足を入れるのはきつそう、そう思いながらテクテクとついて行く。
永遠に続くように思われた赤い藻エリアを抜けると、知る人ぞ知る潮干狩りスポットが広がる。徒歩移動、約1キロ強か、あるいは2キロあったかもしれない。そこには沢山の先客がいた。
全身長靴、かごのリュック、中腰になるのを避けるための椅子など、経験と熟練具合によって装備も洗練されているようだ。簡易テントを広げ、今日はここで一日過ごす気できたかのようなファミリーもいる。
うちは、バケツと網ボール、クーラーボックス。あとはまだ冷たさの残る海に、ズボンをまくってぽちゃぽちゃと、入って行く。
手で5センチくらい掘ってかき回すと、石みたいなのがあるからそれを取ってみて
言われるがママにやってみたら、ゴロゴロ取れた。そこら中にいる。イスギ!めちゃくちゃ取れる。
もちろん、子供達もお尻まで濡らしながら、ひたすら取る。これ大きいよー!とか、これは赤ちゃんだから逃がそう!とか、といちいち報告してくれる。飽きたら砂浜でお風呂みたいな囲いを作って遊ぶ。
つくづく、子供は遊びの天才だと思う。放置したら多分倒れるまで遊び倒すだろう。いい加減という自制は効かない。
アサリはというと、軽く1時間程度でバケツ二杯分を捕獲。
これ以上取っても、この距離を歩いて運べない。駐車場から遠いのだ。だから手で運べる量ギリギリいっぱいが取れたら止める、という感じだ。
この光景から、原始時代の人間の営みが想像できた。
自然の遊びは気づきがいっぱい。
どんな教科書よりも優れた教材だ。
例えば、アサリを手にとってみると、全ての個体の柄が異なることに気づく。
さらに目を凝らすと、デザインの一つ一つが、機械的にドットで描かれているように見える。芸術的だ。
DNAに柄の型が刻まれているのかどうかは知らない。波や水温、その他の環境によって個体差が出るのかどうかも知らない。
確実に言えることは、どれ1つとして同じ柄がないということ。
種としてのアサリ貝全体を統括する集中管理室に置かれるAIが、貝の個体1つ1つの柄の元になるドットの座標をランダムに選択し、生まれるタイミングで1つ1つに、割り当てて行く。
割り当てられた貝は、これが俺の柄か、と受け入れる認識はなく、そのような管理がされていることも知らずに、地球の海に放り出され、ただただ集中管理室で入力されたプログラムに従って、貝としての一生を全うしようとするだけだ。
そこには自由意志などない。もちろん反発もない。ただ、無意識に埋め込まれた命令に従うだけ。
そのような認識もないため、貝は、ただそこに存在している、というほかに存在理由も疑問も何もない。ただそこにあるという状態。
もちろん貝の中に、集中管理室の存在に気付くものはいない。
貝はどこから来てどこに行くのか、この1つ1つの、個体の人生(貝だから貝生?)に一体どれほどの意味があるのか、管理室のAIは誰が何のために作ったのか。
自給自足生活の真似事をしただけで、アサリの柄がどのように決まるかにイマジネーションを働かせて、人間にとられて食べられるというだけの貝の運命を想い、自分の力で取った命を頂く、と行った一連の体験ができる。
そこで何かをリアルタイムに感じるかどうかは問題ではない。その人が、特定の体験をするときに、感受性を開くことができるかどうかはその人次第だ。
ただ、自給自足体験や自然の中で遊ぶというこもは、その扉が開きやすくなっているというこは間違いない。
だから、ひたすらに自然の中で遊ぶことを何度でもいつまでもやってきた人間は頼りになる。一緒に遊んでいて楽しいし、生きる能力が高い。
遊びのできる奴は仕事のできる奴、その意味がこういう時に顕著になる。
小さい頃から泥んこまみれでどれだけ自然の中で遊んできたか、これが人間としての生きる力、魅力と言い換えてもいい、の1つを形作るということだ。
親として、子供たちのために精進せねば、という思いに駆られた。
By Goro