Goro-Sakamoto’s world

坂本吾郎(Goro)が語る。日々の考えを書き留め、アウトプットする場として開設したブログ。ブログとともに、著者も成長していけたら幸い。

文章書くのは好きなんだが、どこに行くかはわからない

文章書くのは好き。今から一筆書きでとこにたどり着くのかわからない旅に出る。誤字脱字は気付いた時に直すので、勘弁を。

 

 

俺は文章を書くのは嫌いじゃない。

 

ただ、パソコンでタイピングして書くのが早いし、あの両手をキーボードに乗せた感覚から脳に閃かせる何かがあるのは確実だ。

 

スマホフリック入力で書くのはそんなに好きじゃない。

 

早くはないし、編集がめんどくさい。

 

そして、キーボードに両手を乗せている時と文章のひらめき、発想の方向性が違う気がする。

 

このブログはだいたいスマホ入力。だから、時々億劫になる。

 

 

もちろん、いつでもどこでも書けるという、メリットはあるものの、スマホをいじいじするのはそんなに好きでもない。

 

 

一方、ニュースのチェックやいろんな情報はスマホで収集することが多いので、結局スマホでいじいじしている。

 

 

側から見たらブログを書いていようがニュースをチェックしていようが、そんなことは知ったことではない。

 

 

全く同じ光景が広がるばかりだ。

 

ただ、俺はこれについて唯一無二の知識がある、とか、これだけは誰にも負けんほど好きだから徹底的に調べてアウトプットするのだ、というテーマは今のところない。

 

 

これがある人が強いのは当たり前。いずれそこに持っていきたい。という気持ちはある。

 

 

でもそれがなくて、コピペでブログ書いてアフィリエイトに誘導する自称ネットビジネスの成功者(あくまで自称)がなんと多いこと。

 

 

ほんとに稼いでいるのか?稼いでいるのになぜ人を勧誘する必要がるのか?

 

 

答えは、前にも書いたが、稼ぐ方法教えます、という商材を売って稼ぐという、なにも価値を生み出さないビジネスだがなんだかわけのわからないことがぐるぐるしてるだけで、今頃始めた人は多分稼げていない。

 

 

それでも、プロフィール欄には脱サラして月収100万突破、とかって書いてある。

 

 

あれって本当なのかなー?なんで人に月収を言う必要があるのか?

 

 

たぶん、羨ましいと思って頼ってくる人が1000人いたらそのうち1人くらいは引っかかるからだよな。

 

 

だからフォロワーを増やしてユーチューブで釣って、ってことを教えるだけの商材だがなんだかが売れてしまうのだ。

 

 

だめだよ。こんな価値のないことで儲けてるやつについていっちゃ。

 

これは妬みでもなんでもない。本当に価値がない。信用を落としていくだけだよ。

 

とまあ、文章を書き始めたらやっぱりあっち行ったらこっち行ったりでどこに行き着くのかわからない。

 

 

だから文章を書くのは面白い、ということも言える気がする。

 

 

仕事では、好きなことを好きな発想で書くことは出来ないことが多い。

 

 

しかしここでなら自分の思ったことを自分の世界観でなにを書いても文句を言う奴は1人もいない。

 

 

そもそも、読者がいないのだから。

 

 

だれか、まだ見ぬ読者よ、俺は自分のために書いて敷くと同時に、あなたのために書いているということも、忘れないで欲しい。

 

 

スマホでここまで1200字、10分くらいの一筆書きで一気にきた。

 

 

やっぱ、書くことは何かを生み出す、つまりゼロイチの作業だからクリエイティブなこと。

 

 

そのクオリティはともかく、自分を表現することはダンスでも文章でもなんでもいいから、そういうことをあえてやっていくということはアイデンティティを確立させていく上でとても大切なことだ、と感じるわけであります。

 

おやすみ。

 

By Goro

ストリートダンスやるならスポーツ的にやれ

大学生時代ハマりにハマったストリートダンス。今ではめっきりやらなくなった。

 

 

てか、やる暇はないし、やってて発展性がない。それをやっててじゃあどうなるの?って聞かれたら、楽しいから、という以上の答えはない。

 

 

金が儲かるわけでもなければ、ダンスを人に教えたいわけでもない。楽しければいい、それだけ。

 

 

だが、昔は違った。

 

人よりも上手く踊ること、有名になること、後輩に教えて敬われること、生徒をたくさん集めること、これらが価値だった。

 

 

しかしそのゴールにはたどり着けなかった。

 

 

当時は戦略性も何もなくて、ただひたすらに練習に打ち込んでいただけ。

 

それもアスリートみたいにストイックではない。

 

なんなら、タバコを片手に鏡(とかドアの映るところとか)の前でひたすら、音楽をかけて体を揺らしてイケてる振り付けを思いついたら音にはめていって、作品ができれば友達とグダグダしながら振り付けを覚えて、なんとなくショーに出る。

 

この繰り返し。

全てが中途半端だったのだ。

 

もちろん、一時期は本当にストイックに練習にした日々もあった。タバコもやめて筋トレもして、汗だくになるまで息切れしても踊り続ける、そんな時期もあった。

 

 

だが戦略性はなかった。

 

 

だから何者にもなれず、社会人になって自然とダンスから離れていった。そんなダンサー友達はめちゃくちゃ多い。

 

なんなら一線で活躍しているストリートダンサーですら、当時はその程度だった。

 

 

シーンとして社会全体で突き抜けて行かなかった1つの理由がここにあると思う。

 

 

プライドだけが高くて、本気で這いつくばって練習するということはなかったし、どういうダンサーになって、どうやってお金を稼ぐのかという考えはなかった。

 

 

やっていればそのうち認められ、そしてどうにかなる、くらいの甘い考えだった。

 

そしてそんな日々に嫌気がさして辞める日が来た。

 

ダンスはスポーツでいい

 

1つ立ち止まって考えて欲しい。

 

高校時代の部活、そんなに甘っちょろかっだろうか?毎日足がつるまで走り、先生に怒鳴られ、試合に負けては泣き、合宿で馬鹿騒ぎし、好きな子にいいところを見せ、何もかもが本気だったよな?

 

これがアングラ生まれのストリートダンスには足らなかったのだと思う。

 

 

勘違いしないで欲しいのは、アスリートとして頑張っていた人たちもいた、そこは事実としてある。が少数だった。シーン全体として、チャラチャラとして、いきがって、社会に認められるような行動を取ってこなかった、ということもまた事実だろう。

 

 

ダンスがヒップホップカルチャーから生まれたからと、アングラにこだわることに意味はない。もちろんわかるんだけどね、Lifestyle Hiphop ヒップホップを貫く人のこだわりやかっこよさは。

 

でも、この時代、もはや、もっとスポーツや教育としての側面で捉えて良いと思う。事実、教育には取り入れられている。

 

 

ストリートカルチャーもオリンピック競技になったり、いろんな場面で目にする機会は増えた。

 

つまりダンスを続ける中で目指すところの選択肢が増えているということだ。

 

筆者はただ楽しければそれでいいのだが、こういうことはやっている当時に存分に考えて議論して、方向性を明確にしておかなければならなかった、と、ふと振り返ることがある。

 

 

自分の過去との分断

 

こうしたギャップを解消しないままにしていたことが要因で、「ダンスをやめた自分」と「ダンサー時代の自分」の分断があった。

 

社会人になってから、ダンスを頑張って上手くなった自分を誇りに思うと同時に、何も達成しないことに明け暮れた時間の浪費に対する後悔の念とが混在したまま時が過ぎていくことになった。

 

結局、人の目や評価ばかりを気にしていた、ということだろう。

 

人に認められないから辞める、認められるならば続ける、という具合に。

 

これだと全てが他人次第ということになってしまう。

 

 

もちろん、他人を変えるために自分が変わり、その影響で評価が変わるという循環はあるだろう。

 

 

しかし、その前のマインドセットとして評価を前提としていたこと、そのことに気づかなかった若かれし頃の自分に対して、言いたいことがある。

 

 

自分の良心にだけ従え

 

これはもうスティーブ・ジョブズのスピーチの通りだ。

 

やりたければやれ、ただ、中途半端にはやらな。そしたら振り返った時にドットは繋がるぞ。

 

今の僕は、楽しければやるしそうでなければやらない、だから上手く踊る必要もないし、毎日やる必要もない。クラブに行って音に乗り、酔っ払って少し激しいステップを踏む、こんなことができれば最高の夜を楽しめる。

 

 

それでいい、最高だ。

ダンサーとして失うものがなくなった時、ダンスが最高に楽しいものに変わる。

 

 

これって、気の持ち方として仕事にも当てはまる部分があるのかも。

 

 

いつでもやめていいという気持ちであれば上司の小言や面倒くさい社内政治、その他のことから解放されて好きなように振る舞える。

 

 

ただ、そこに到達するには、会社を辞めても生きていける、辞められたら困る存在という裏付けがなければ空回りするだけだろう。

 

もしそのような存在になれているのであれば、あなたの発言力は高まり、好きなことができる領域はぐんと広がる。

 

はあはあ、長い。疲れた。

めちゃくちゃだけど、おやすみなさい。

 

 

By Goro

 

トラブルのない旅は、山頂まで車で行く登山のようなものなのか

数年の海外駐在中、用務で帰国した。

 

すぐに慣れることではあるが、周りがすべて日本語なのが新鮮で、レストラ ンでは隣の人の話が筒抜けに耳に入ってくるという感覚に、 最初違和感があった。

 

 

「その話、聞こえているよ」という感じ。

 


ところで、当時(2016年)築地市場を訪れた際に、飲食店のオジ様オバ様たちが、3か国語(もしくはそれ以上)を駆使して客を呼び込み、接客をする光景を目の当たりにした。

 

 

当然、中国語、英語、韓国語、日本語、のあたりが多い。どれくらいのレベルでできているのかはわからないが、一見、客とのやりとり程度ならば問題なさそう。

 

 

日本語が通じなければ英語に切り替え、顔が中国人ポイ時は中国語、韓国人ぽければ韓国語という具合で、少なくとも、「えーっと・ ・・」と頭の中で考えて翻訳する日本人独特の間はなく、テンポよ くコミュニケーションが取れていた。ように見えた(不思議なもので、顔だけで東アジアの三カ国はだいたいわかるんだよなー。)。

 

 

これには横から見ていて正直に驚いたとともに、商人魂を感じずにはいられなかったし、日本のインバウンドが盛り上がってきていることを現場感として目の当たりにした瞬間だった。

 


築地も浅草も二条城も外国人だらけ。

 

 

さて、仕事上付き合いのあった日本在住のマレーシア人と話した時、「日本語が話せない」と言うので、「日本にいて日本語ができないと困難な場面があるのではないか」と質問した。

 

彼はこう答えた。

「全くそのように思わない。なぜなら、標識はほぼ英語が併記してあるため迷うことはない。もちろん10年前なら違っていただろうが 。また、多くの日本人は英語が理解できる。」

 

 

私は「つまり多言語対応は、訪日者を怠惰( lazy)にしてしまう側面があるということですね」 と言ったら、「まさに言うとおりだね」 と笑って答えてくれた。

 

 

その前に、日本人が英語ができるという件、正直違和感があった。本当か?

 

 

九州の地方出身の自分としては、ほとんどの日本人は英語を話せないと思っていた。実際、周囲に英語ができる人は知り合いとか同僚とか見回すと、感覚としては10人に1人もいないくらい。

 

 

ここで問題になるのは、何をもってできると定義するかということであるが、私の理解では「英語ができない人」は、学校で習っていて知識はあるが、日常的に使ったことがほぼ100パーセントないので、「使えないと思い込んでいる人たち」のこと、だからいざという時は本当に使えない。これが私の周りには90%を超えるくらいという感覚。

 

 

話を戻すと、マレーシアにおいても、ほとんどの市民に英語が通じるため、マレーシアで生活する限り、マレー語や中国語を学ぶ必要性はそれほど感じられなかった。

 

 

本当に相互理解を深めるには、 言葉も重要な要素であると思うが、だからと言って現地語の習得に拘っていては、外国に行くことさえも躊躇してしまうだろう。

 

 

逆に、コミュニケーションの取れない不自由さを楽しむことこそが旅の目的だという人もいるだろう。

 

しかし、水一つ買うのに苦労するのでは、やはり観光そのものの目的を達成するには、一般的に言ってハードルが高いと言える。その状況を楽しめる人は一握りの人たちだけ。

 

 

その土地に住んで時間をかけて当地の言語・文化について理解を深めていくことと、短期旅行でトラブルなく過ごすということとは、 やはり訪問者にとっての目的も違えば、受け入れ側のアプローチも当然異なるということであろう。

 

ちなみに、トラブルなく過ごすことが本当に良い旅なのかどうかという価値の問題は大いに議論の余地があるところだが、ここでは触れないでおこう。

 


蕎麦をすする音に対して外国人がどのように感じるかは知らないが、世界はとっ くの昔に「郷に入っては・・・」、とばかりも言ってはいられない時代になっている。

 

 

宗教に目を向ければ、排他的で厳格な線引きを する文化も依然として存在するが、文化や観光に目を向ければ、 訪れる人には「違いを受け入れる態度」が求められるとともに、 受け入れ側には「違いを認める寛容な態度」が求められている。

 

 

この「ギャップ」を小さくすれば、相互に気持ち良い交流が可能となるということであり、その方法が、多言語対応やハラル対応など、とい ったインバウンドの取組だと思われる。

 

 

マレーシアはイスラム教の国ではあるが、時と場所を選べば、豚肉やお酒も許容されている点で不自由はない。

 

 

一方で、時間にルーズ(口約束は守らない)、 公衆トイレが汚い、交通マナーが悪すぎるなど、大いに「 ギャップ」を感じる場面はまだまだ多く、これは自分の外国人としてみた際の受容力の側に問題があるということなのだろうと、この文章を書きながら自省の念に駆られた次第。

 

 

繰り返すが、「ギャップ」が大きい方が旅の思い出は色濃く残るという意味では、やはり旅の目的、何を得るか、といった価値問題については議論の余地がある。

 

By Goro

電池切れのポエム

午前中、執務室で仕事して午後から軽く隣県まで電車で出張。

 

 

今は電車の中だ。

 

電車では本を読むのが好きで、駅で本屋さんに行き、お供を探す。

 

 

でも時間ギリギリになり、選ぶ時間が確保できず、結局買わずに乗ってしまった。

 

 

ならばいつもカバンに忍ばせている本を読めば良い。

 

でも買った瞬間の、あの読みたい衝動の勢いで読破する感じが好きだったりもする。

 

 

そんなこんなで、気乗りせず携帯でニュースでも読み漁ろうかと画面を見ると、充電が30%となっている。

 

 

30%?

 

なぜ?

 

 

今朝は100%だったはずだよ。

 

 

iPhoneによくある、電池系のトラブルか?

 

 

まあいい。携帯はお預けだ。

カバンに忍ばせたカラマーゾフの兄弟でも読んでおこう。

 

 

と、行きはそれでよかった。

 

 

今、帰りの電車だ。

 

充電の残りは11%にまで減っている。

 

 

ここで携帯を使うべきではない。本を読んで過ごせ、俺。

 

しかし、こんな隙間時間に何か書くのも悪くない、と思ってブログを書くことを思いつく。

 

そんなこんなしている間に10%に減っている。

 

そりゃあ当然だ、触れば触るほど減る。

 

 

わかってはいる、が、そんな極限状態の中で生まれる文章があるに違いない。

 

根拠なくそう確信し、筆を進めている。

 

 

だが、なかなか出てこない。その極限状況にのみ発揮されるという伝説の文章が。

 

そもそもこのブログは一筆書きだ。何か思いついたからと計画通りに書くこともあれば、行き先がわからないまま走り出して事故ることだってあるかもしれない。

 

 

それでもやっぱり行かなければ見えない景色があるのだ。

 

 

だから行け。

 

充電がなくなってしまっても構わないんだ。そん時は投稿ができないだけだ。もともとなかったものができなくたって、誰にも気づかれないだけ。そもそもそんなに読まれていない。だから何の損失もない。

 

 

だが、わかっている。じつは、この発想はよくない。それは痛くわかっている。

 

そう思いながらあえて書いているのだ。

 

それはつまり、もともと無いのだから何もしなくても変わらない、という発想ならば、誰も何もしなくていいし、人間生活もしなくていいし、社会は回らなくていいし、国の発展もしなくていいという理屈になる。そもそも存在しなくていいと。虚無の世界に陥ってしまう。

 

 

そうではないのだ。

 

何も無い時にこそ何かを生み出す発想が必要であり、今この変化の激しい時代に特に求められるマインドセットなのだ。

 

 

そんなことを、充電が7%に減る間に考えながら、電池が切れることよりも、何かしらのアウトプットになればとの思いで、ここまで来た。

 

 

この記事ですでに1000文字を超えた。

だから、あとはどこに到達しても良いという気持ちになった。ああ楽だ。

 

 

もし俺が、ここで何かを書く決心をしなければ、携帯こそ死なかったかもしれないが、そこには何もせずに携帯の画面を眺め、パズルゲームに勤しむ哀愁漂うおっさんの姿があったのかもしれない。

 

そしてブログのネタがないネタがないと嘆き、ついに書くのが億劫になる姿も思い浮かぶ。

 

だが、俺はそれを回避した。少なくとも今回だけは回避できた。

 

充電はまだ7%のままだ。

 

さ、これからでも遅くは無い。

 

本を読もう。

 

By Goro

自給自足生活

アサリが取れる海岸があるというので行ってみた。

 

潮干狩りだ。

 

潮干狩りといえば小さい頃に家族で連れられて船に乗って行った干潟のイメージだった。

 

その時に何をとったのか、どうやって取ったのか、何を思ったのかは全く覚えていない。覚えていることといえば、船の穴からおしっこを垂れ流したことが楽しかったということだけだ。

 

そんな潮干狩りに、姉さん家族に誘われたので行ってみた。

 

潟ではない。

福岡県の雁ノ巣海岸だ。

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もちろん干潮時刻に合わせて行くのだが、最初は帰りの時間が遅くなるのではないか、といういかにも大人の都合のみを心配していた。反対に、もちろん子供達はノリノリだ。

 

駐車場からスポットまでは20分くらい歩くのであるが、その間に通る海岸は、何か赤い藻のような植物の残骸が何かで覆われていた。ここに足を入れるのはきつそう、そう思いながらテクテクとついて行く。

 

永遠に続くように思われた赤い藻エリアを抜けると、知る人ぞ知る潮干狩りスポットが広がる。徒歩移動、約1キロ強か、あるいは2キロあったかもしれない。そこには沢山の先客がいた。

 

全身長靴、かごのリュック、中腰になるのを避けるための椅子など、経験と熟練具合によって装備も洗練されているようだ。簡易テントを広げ、今日はここで一日過ごす気できたかのようなファミリーもいる。

 

うちは、バケツと網ボール、クーラーボックス。あとはまだ冷たさの残る海に、ズボンをまくってぽちゃぽちゃと、入って行く。

 

手で5センチくらい掘ってかき回すと、石みたいなのがあるからそれを取ってみて

 

言われるがママにやってみたら、ゴロゴロ取れた。そこら中にいる。イスギ!めちゃくちゃ取れる。

 

もちろん、子供達もお尻まで濡らしながら、ひたすら取る。これ大きいよー!とか、これは赤ちゃんだから逃がそう!とか、といちいち報告してくれる。飽きたら砂浜でお風呂みたいな囲いを作って遊ぶ。

 

つくづく、子供は遊びの天才だと思う。放置したら多分倒れるまで遊び倒すだろう。いい加減という自制は効かない。

 

アサリはというと、軽く1時間程度でバケツ二杯分を捕獲。

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これ以上取っても、この距離を歩いて運べない。駐車場から遠いのだ。だから手で運べる量ギリギリいっぱいが取れたら止める、という感じだ。

 

この光景から、原始時代の人間の営みが想像できた。

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自然の遊びは気づきがいっぱい。

どんな教科書よりも優れた教材だ。

 

例えば、アサリを手にとってみると、全ての個体の柄が異なることに気づく。

 

さらに目を凝らすと、デザインの一つ一つが、機械的にドットで描かれているように見える。芸術的だ。

 

DNAに柄の型が刻まれているのかどうかは知らない。波や水温、その他の環境によって個体差が出るのかどうかも知らない。

 

確実に言えることは、どれ1つとして同じ柄がないということ。

 

種としてのアサリ貝全体を統括する集中管理室に置かれるAIが、貝の個体1つ1つの柄の元になるドットの座標をランダムに選択し、生まれるタイミングで1つ1つに、割り当てて行く。

 

割り当てられた貝は、これが俺の柄か、と受け入れる認識はなく、そのような管理がされていることも知らずに、地球の海に放り出され、ただただ集中管理室で入力されたプログラムに従って、貝としての一生を全うしようとするだけだ。

 

そこには自由意志などない。もちろん反発もない。ただ、無意識に埋め込まれた命令に従うだけ。

 

そのような認識もないため、貝は、ただそこに存在している、というほかに存在理由も疑問も何もない。ただそこにあるという状態。

 

もちろん貝の中に、集中管理室の存在に気付くものはいない。

 

貝はどこから来てどこに行くのか、この1つ1つの、個体の人生(貝だから貝生?)に一体どれほどの意味があるのか、管理室のAIは誰が何のために作ったのか。

 

自給自足生活の真似事をしただけで、アサリの柄がどのように決まるかにイマジネーションを働かせて、人間にとられて食べられるというだけの貝の運命を想い、自分の力で取った命を頂く、と行った一連の体験ができる。

 

そこで何かをリアルタイムに感じるかどうかは問題ではない。その人が、特定の体験をするときに、感受性を開くことができるかどうかはその人次第だ。

 

ただ、自給自足体験や自然の中で遊ぶというこもは、その扉が開きやすくなっているというこは間違いない。

 

だから、ひたすらに自然の中で遊ぶことを何度でもいつまでもやってきた人間は頼りになる。一緒に遊んでいて楽しいし、生きる能力が高い。

 

遊びのできる奴は仕事のできる奴、その意味がこういう時に顕著になる。

 

小さい頃から泥んこまみれでどれだけ自然の中で遊んできたか、これが人間としての生きる力、魅力と言い換えてもいい、の1つを形作るということだ。

 

親として、子供たちのために精進せねば、という思いに駆られた。

 

By Goro

桜の季節と会計年度

サクラは日本人に馴染みが深い。日本で観賞用として植えられているサクラの多くはソメイヨシノだ。海外では、cherry blossom と呼ばずにsakuraと呼ばれることもあるほど日本文化と桜はセットで語られる。

 

その桜は、だいたい3月末から4月の頭にかけて、パッと咲いてパッと散る。その潔さから、

命の儚さ、諸行無常といった日本特有の人生観が生まれた。

 

その歴史は長く、古くから歌に詠まれ、花見の行事などが行われてきた。その心は基本的に今でも変わっていないし、日本の桜を愛でる文化は世界に広がっており、インバウンドとしても一大コンテンツとなっている。

 

そんな桜の咲く季節、その前と後とで、人々の心の持ち方はどこか違うものになるのではないか。全く違うもの、と言っても過言ではない。

 

例えば、小学校を卒業して中学に入る12歳。

 

こんな感じ。

つまり、桜が咲くまでは小学生の延長で小学生でなくなったという実感が少ないが、桜が咲く頃からは、新しい学ランを着たり、部活のことを考えたり、新しい友達のことを想像したり、中学生になるのがどこか楽しみになってくる。(嫌で嫌で仕方ない人もいるかもしれないが。。)

 

そう、ある意味では、桜によってまさに「生まれ変わる」という感覚なのだ。

 

誰が決めたかは知らないが、学校は4月に始まり、3月に終わる。桜と入学入社、出会いと別れはセットなのだ。そして会計も同じく3月に閉まる。

 

だから日本で単に年度といえば一般に4月から3月のことを指す。

 

だが、海外は違うところも多い。例えば中国では、会計は1月に始まり12月に閉じる。他方で、学校は9月に始まるらしい。

 

会計と学校がリンクしていない事がどんな感覚なのか、そこはよくわからないが、日本では、卒業、入学、入社、人事異動など、とにかく前年度と新年度では人間関係も仕事の内容も、お金の出所も、何もかもがあまりにも違う。生まれ変わるから。

 

余談だが、中国企業と仕事をしていると、こういう事情を理解しているのかしていないのかは知らないが、年度始めからガンガン連絡してきてゴールデンウィークに予定を入れようとするから恐ろしい。しかもこの令和の夜明けとなるゴールデンウィークに、日本側に対して失礼ですらある気がする。旧正月は何も動かないくせに、こちらの事情を汲もうとしない。

 

もしかしたら、ただ窓口となって対話している人がそういう人なだけかもしれないが、矢面に立つ人がこういう人だと、中国人はこういう人、というなんとなくのイメージができてしまっても仕方ない。相手に国際理解がないのと同様、こちらも一括りに中国人は、というレッテル貼りをしてしまい、国際理解というコンセプトとは程遠い感情が沸き起こる。

 

話が逸れた。

 

年度の区切りから逆算すると、大学の入試はだいたい冬になる。そして、雪で公共交通機関が止まったりして受験に影響が出る事もある。そして毎年ニュースになる。

 

ならばいっそ、学校を9月始まりに変えてしまうというのはどうだろう?

 

そしたら受験の季節が梅雨とか真夏の盛りになるのかな?でも雪で止まるよりはマシかも。だが、入学の時の、あの桜に包まれた暖かな季節感とめでたさは半減か。総じて、メリットよりデメリットが大きいのかな。

 

 

まあいい。

 

いずれにしても、別に変えるべきとまで思っているわけでもない。加えて、もしそんなことを主張したとしても、桜の時期に重なった既存のいろいろなサイクルを変えることに大きな抵抗があるだろうことが予想できる。

 

日本では、何を変えるにしても必ず大きな批判が巻き起こり、そして変化のスピードがめちゃくちゃ遅いのだ。

 

変わらない美しい伝統や文化と、変わるべき日本のマインドセット、この、一体化したようでチグハグ、かつ相反しているような自己矛盾を克服し、課題先進国として世界の変化と国家レベルの課題に立ち向かっていかなければならない。

 

もちろん、このことと、会計、学校の年度云々との関連は全くないし、変えるべきという主張でもない。

 

桜は花に顕われる

 

生まれ変わったタイミングで、新たな自分の得意分野を開拓したり、環境が分かることで見えてくる自分らしさに気づけるのも、この季節なのかもしれない。

 

 

By Goro

 

統一地方選挙での連呼行為

小さな頃から、選挙になると選挙カーが田舎の隅々まで走ってきて、候補者の名前を連呼して去っていく。本人ではなく、アルバイトや事務所の協力者たちが乗る車の中からだ。

 

 

うるさいと。

 

 

これ以外に浮かぶ言葉がない。

 

 

こんな滑稽な選挙戦を強いられる候補者、というか、これをやらずには勝てないからやるのだろうか?

 

 

それとも、頑張っている姿((這いつくばって汗水垂らして、ダサい姿)をあえて見せることで、庶民に寄り添う政治、というイメージでも刷り込みたいのだろうか?あるいは、単純に名前を覚えてもらうためのサブリミナル効果を狙ってのことだろうか?

 

 

潜在意識のレベルでどのように働くかは専門家に委ねるとして、理屈と感情論だけで述べるとすれば、うるさいと思った時に聞いた候補者に対しては、イラつく。

 

 

 福祉、子育て、雇用の確保などなど、なんとなく耳あたりの良いことを並べとけ。原発反対、辺野古埋め立て反対、オスプレイ反対、地域に関わる国策問題には反対しとけ。

 

そんな哲学のない選挙戦になっていないか。

 

 

名前の連呼行為の効果は知らんけど、なんでみんなが揃いも揃って同じ戦い方をするのか、ちょっと調べてみたら、原因は公職選挙法にあった。

 

 

(連呼行為の禁止)
第140条の2 何人も、選挙運動のため、連呼行為をすることができない。ただし、演説会場及び街頭演説(演説を含む。)の場所においてする場合並びに午前八時から午後八時までの間に限り、次条の規定により選挙運動のために使用される自動車又は船舶の上においてする場合は、この限りでない

 

 

 

これだ。赤字部分だけ読めばいい。

法律がそもそも、街宣カーで連呼行為をすることを想定した作りになっている

 

 

こんなにテクノロジーの発達した国で、こんなに時代遅れのアナログな選挙を展開しないといけないのは一体どういうわけだ。

 

 

若者が選挙や政治家に抱くイメージが悪くなり、結果として投票率が低くなる遠因の一つと言っても過言ではないのではないか?

 

 

おっさん政治家におっさん票ばっかりが集まる日本の政治では、若者の票や意見に関心があるわけもなければ、若者が投票しないのはかえって好都合なのではないか?

 

 

アメリカ人に、日本の選挙の連呼行為についてどう思うか、と聞いたことがあるが、揃って嘲笑を浮かべながらこう述べる。

 

 

馬鹿げている

 

 

ちなみに、マレーシアでは、それはもう露骨で、政党が金をばらまいて票を買うとか。

 

 

なんだか清々しささえ感じるね。

 

これがいいか悪いかといえば、多分悪いのだろうけども。だからと言って、なんでも清廉潔白が常に正義で絶対的な善であるとまで言ってしまうと、世の中の全てのことがその時々の価値観によって画一化されてしまう。

 

 

日本という国はそういう国なのではないだろうか?

無意識的に常に全体主義的。

お上なんて言っている時点で、もう思考停止である。

 

だからこそ、自然災害が起こると行政に不満の矛先が向くのだ。

 

 

日本独特の文化や習慣でも、小さな頃から周りに日本人しかいない環境で周囲に合わせることが良いことと教えられ、その上、海外にもあまり出たことがなければ、この違和感には気づくことさえないのかもしれない。

 

 

よーく目を凝らして国際的な視点から俯瞰してみれば、選挙に限らず、日本のいろんなところに奇妙な光景がまだまだ見つかるかもしれない。

 

 

By Goro