Goro-Sakamoto’s world

坂本吾郎(Goro)が語る。日々の考えを書き留め、アウトプットする場として開設したブログ。ブログとともに、著者も成長していけたら幸い。

結婚式の余興とえいば必ずダンスを絡める

職場の同僚や同期が結婚する時、余興を頼まれることがある。

 

仲の良い友人ならば、快く引き受け、最高に盛り上げてやりたい。

 

それほど付き合いの深くない友人でも、同期みんなでやるとか、同僚としてみんなでやる時には、多少めんどくさいと思いつつも、集団行動として何かしら協力を求められる。

 

 

だから、どうせやるなら、楽しくて、喜んでもらえるように頑張る。

 

f:id:goro-sakamoto:20190523221439j:image

 

先日、仲の良い友人(同期)が結婚した。もちろん、余興をして欲しいと頼まれた。

 

僕は昔ダンスをやってたから、余興といえばダンスしかない。それ以外に自分から思い付く企画はあまりない。

 

 

最近のでいえば、USAのパクリとか、手抜きもあるが、だいたいオリジナルの振り付けを頑張る。

 

もちろん、素人のみんながよってたかって踊るので、素人向けの振り付けになる。非常に簡単でシンプルなやつ。

 

しかし、踊りとは、振り付けのかっこよさがダンスのかっこよさをそのまま左右するわけではない。

 

ダサい振り付けでもかっこよく踊ることはできる場合がある。また、簡単な振り付けだから誰もがかっこよく踊れるわけでは決してない。むしろ、簡単な振り付けをかっこよく見せるオーラとか絶妙な身体の角度とかが存在する。

 

つまり、ダサいかかっこいいか、は本当に紙一重だ。上手いか下手かですらない可能性がある。まず、客の心を捉えるのは、やりきったかどうか。バカになって本気でやっているかどうか。

 

上手い人が踊っても、手抜きだとバレたら白けるだろう。

 

逆に、下手な素人でも、ハイになって顔で踊るくらい気持ちを乗せると、キモいのを通り越してかっこいいのだ。

 

これはダンスをやっている時から口酸っぱく言われてきたこと。技術はあるが伝わらない、だとか、セクシーではない、とか、鬼気迫るものが感じられない、だとか。うるさい。

 

 

というわけで、企画案をご紹介。

 

1.  動画編

コマ送りで、ダンスのポーズを複数撮って、動画編集で曲に乗せてダンスのように見せる。

8カウントあたりに4枚の写真、できれば8枚の写真をカウントに乗せて切り替えていく。パラパラマンガの要領だ。今は、スマホでも動画編集ができる時代。ちょっとダンスの振り付けが分かっている人がいれば簡単にできてしまうし、オリジナリティも、高いだろう。

 

ダンスだけだと飽きるので、ピカピカ動画をミックスしたり。(カメラのシャッター露出を長くして、光でもしや絵を描いた状態で写真を撮る。コマ送りの要領で場面ごとに撮影し、音に乗せるのだ。)

 

これ、ちゃんと計画的に根気よくやると、かなりのクオリティになると思う。

 

2.   選曲編

はっきり言って、無限にあるけど、使ったことのあるやつ。

 

・曲名 Can't Take My Eyes Off You

 

 

・曲名うれしいたのしい大好き(あえてドリカムではなくダンサブルビートなFumikaの方で)

 

 

・曲名   Jazztronik ユメノツヅキ

 

 

キリがないのでこの辺で。

 

By Goro

神は存在するのか

先日から、高齢者の暴走運転や不注意の事故の巻き添えにより、無垢の命が奪われるという痛ましい事故が相次いだ。

 

子供の命が奪われるという時、親の心どのように引きちぎられるのか、それはもう想像を絶する怒りと悲しみに、この世が地獄に感じられるに違いない。何もかもがどうでもよくなってしまうかもしれない。何故なら、全てに優先される存在が不意にいなくなってしまうのだから。

 

だが、これは第三者の憶測に過ぎないのかもしれない。もしかしたら、その他の前向きな感情を残して、事故撲滅ムーブメントを巻き起こすなど、何らかの使命感に駆られるという場合もあるかもしれない。いずれにしても、一概にも言えないし、想像の域を出ることもないが、とにかく辛くて悲しくてしんどくて、どん底に叩き落されるという部分は間違いないだろう。

 

よくこんな言葉を聞く。

 

 

神は、乗り越えられない試練を与えはしない。

 

 

実に前向きでいい言葉だ。

 

何かにチャランジする時、壁に当たった時、批判された時など、こういう言葉を糧にして実際に乗り越えて行こうとする人は多いだろう。そしてこの言葉の価値を再確認するのだ。

 

 

だが、この言葉を信じて行動することと、実際に神がいるかどうかというのは別の話。

 

もし神が存在するのなら、神は何のために存在するのか?一個人のいく先に壁を設定し、乗り越えられるかどうかを試し、成長を後押しするための存在なのか?

 

ならば、事故で亡くなった子供に対して、「この車を避けられるか」という無慈悲な試練を与え、避けられなかったために死を宣告する、それが神の仕事であり、その子は神の意思にそぐわなかったでもいうのか。

 

もしくは、母親や父親に対して「我が子の死に耐えられるか」という試練を与え、乗り越えさせようとする。その試練は子供の死という犠牲を伴うわけである。そもそも、このような試練を乗り越えるということはできないだろう。せいぜい、時間が経って死を受け入れる、というところまでで、生きている限りは乗り越えられることもないように思えるし、仮に乗り越えたとしても、その先に親として人間として成長したところで、一体何になるのか。

 

これが神なのか?

 

 

もしこういう抗えない意思が働いているとした場合には、それは神ではなくて悪魔なのではないか。

 

神ならば、何故、無実の命を犠牲にするのだ。

 

世の中全体を最適に保つにはその犠牲が必要だから、神はあえてその犠牲を人に強いるとでも言うのか。

 

あるいは、世の中という人の社会だけではなく、地球環境のためなのか、はたまた宇宙全体のレベルでそうなのか。

 

 

そんなのは嘘だ。

世の中の出来事全てに意味がある?

嘘だ嘘だ。

 

どこをどう考えてみても、ほかに悪害をもたらす政治的指導者や環境を破壊する大きな組織や国家、優先すべきことはほかにたくさんありそうだ。

 

 

神は存在するのか?

f:id:goro-sakamoto:20190523221916j:image

 

神は、人々の生活を豊かにし、人生に意味を与える存在であり、知的な人格を伴うような存在ではないであろうことは皆さんも承知の通りだろうけど、そういう超越的な存在を意識してこのような出来事を考えると、神はいないか、神は人を幸せにすることはない、という結論になりそうだ。

 

世界の紛争地域では、神をめぐる宗教的な争いのために家族が命を落とすという場面が日常的にあるのだとすれば、やはり、神はいないか

人を幸せにはしない、あるいは人を不幸にする存在、という結論が妥当な気がする。

 

もちろん、宗教とか人の信仰を否定するものでは全くないけどね。

 

By Goro

四つ葉のクローバーの探し方

f:id:goro-sakamoto:20190523205450j:image

公園でゆったり過ごす休日。

 

探したわけでもなく、あっ!と言う感じで、簡単に四つ葉のクローバーを見つけてしまう、我が妻。

 

それをみて、探したくなる自分。

 

そして、我関せずと、小川で水遊びに明け暮れる子供達。

 

どうせ四つ葉を探すなら別の場所がよい、と思って探すも、見つからない。

 

妻は

「ここのエリアに沢山あるよ、きっと。だって、多分そういう遺伝子がここ辺りで育ってると思うから」

 

という。

 

僕は

「人が既に見つけたところで同じものを探すより、人が行かないところにこそ機会が潜んでいるに違いない」

 

と言って、妻とは別の場所を探す。

 

その間に、妻は5つくらい次々と発見する。

 

だが自分は一向に見つけられない。

 

今更、最初に勧められた場所になどいけるはずがない、自分は自分の道を行く。他の場所で探すのだ。人と同じではつまらないではないか。迷わずいけよ、歩けばそこが道になる。人が行かない場所にこそチャンスは眠っているのだ。人生は逆張りが鉄則だ!

 

とかなんとかブツブツ言いながら、腰が痛くなるまで地面を、まるで土豚のように鼻息荒く探して回る。周囲の小さな子連れのママたちからみたら、不審者そのものだったことだろう。

 

 

だがそんなことは関係ない。とにかく、違う場所で見つけるまで探すのだ。そこにあるという根拠はない。ただ、さっきそこで妻が見つけたのだから別の場所にも妻が見つけられないマーケットがあるに違いない。

 

だが、そこには戦略も何もない。

ただひたすらに、リソースをつぎ込む格好だ。

 

しかし、やはり見つけられない。

 

最初から妻の忠告通りの場所で探せばよかったのか、それとも四つ葉のクローバーとは異なる植物あるいは虫などを探すべきだったのか、答えはわからない。

 

ただ一つだけ言えること

 

意地になって無計画に探しても、目当てのものはそこにないかもしれない、ということ。

 

たまたまそこにあるのであれば、結果オーライかもしれない。しかし、実は存在しないものを探していた、ということならば悲惨だ。もちろん、探している途中でその答えを知ることはできない。

 

だが、妻のいうように、なんらかの仮説を立てて、それに従って検証をする、その結果をもとにまた、戦略を練り直す、という態度か必要だったのかもしれない。

 

四つ葉のクローバー探し一つをとっても、人の性格や行動パターンが垣間見えることがある。

 

自分は、無計画なタイプだったということを改めて認識させられた。よく言えば負けず嫌い、とか、諦めない、とか言えるのかもしれないが、結局は見つけられずに諦めたのだから、やはり無計画野郎だ。

 

四つ葉にまつわる、平和な休日の午後下がり。

 

By Goro

平成から令和へ

時代が変わった。

 

ただし、形式的な意味での時代が変わっただけで、時間は引き続き連続的であるし、何かが外的な環境が劇的に変わったというものではない。

 

あくまで、天皇が退位されて上皇となり、皇太子が即位して新天皇となられた。

 

それに伴い、日本の元号が平成から令和に変わった。

f:id:goro-sakamoto:20190523222021j:image

 

客観的にはこれだけの変化に過ぎない。

 

だが、人々への心理的な影響は大きい。

 

平成の時代には良い未来が描きにくかったからなのだろうか、これを機に新しく明るい時代を期待し、人々はどこか希望を持って未来を見ているように見える。

 

もちろん明るいのはいいことだ。

 

平成は、経済的にも低迷し、高齢社会は進行し、少子化は進む。給料は上がらないし会社にいても明るい老後は見えてこなかった。

 

一方、世界を見ると、新しい技術がどんどん出てきて立ち止まればすぐに置いてけぼりを食らうスピードで変化している。

 

中国は台頭し、アメリ自国第一主義に走り、英国はEU離脱朝鮮半島情勢もめまぐるしい。

 

つまり、これまでの常態が常態ではなくなりつつあり、そのような世界の潮流が、1人1人の人間に対して、何らかの変化を求めているような気がするけども、自分自身や勤めている会社、家庭環境などのしがらみも含めて、すぐには変わることのできない身の回りのものと世界のギャップを目の当たりにすることによって、無意識に焦燥感を募らせてきたかのようでもある。

 

そんなムードが大部分を占める(かもしれない)島国ジャパン。ほぼ単一民族国家、お上文化、村八分とか五人組に代表されるような、ハイコンテクストな言語を持ち、激しく空気を読む文化。

 

すなわち、歴史的に周りに合わせることが美徳とされ続けてきた民に浸透しきった習慣や考え方を踏まえると、この度の改元に伴う祝賀ムードは、平成の閉塞感を吹き飛ばし、まさに一斉に同じ方向を向いて行こうという態度の表れであり、実に日本人らしい反応というべきなのかもしれない。

 

もちろん、明るいのはいいことだ。

だが人と同じこと、集団行動が嫌いな空気の読めない私には、気がかりな点がなくはない。

 

渋谷で騒ごうとす集まる若者、至る所で行われるカウントダウンイベントなど、まるでワールドカップかハロウィンか年越しのそれと全く同じだ。

 

何度も言うが、今回のそれは、明るい未来に向かった希望であるので、良い。

 

だがこれが別のベクトルや要素を持っていた場合には、必ずしも良い方向に働くとは限らない。そしてそのようなことがこの、日本ではいつでも起こりうると言うことも否定されない。

 

それは先の大戦を例に出すまでもない。

 

日本人とは、良くも悪くも、周りは全て日本人で全員が日本語しか話さない環境で育ってきた人が多い(そうでない人もいると思うが、圧倒的多数にとっては、周りが日本人と日本語ばかりであったという事実は否定できないだろう)。

 

そんな日本にも、平成が終わり、令和の時代が幕を開けた。

 

インバウンド観光客に沸き、外国人労働者を取り巻く制度も大きく変わってきた。

 

これまでもそうだったとは思うが、令和の時代は、それにも増して、地域レベルでも国際化の視点を積極的に取り入れ、国民そのものがオープンになっていかなければならない時代だと思う。

 

さ、英語やっとくかー!

 

By Goro

文章書くのは好きなんだが、どこに行くかはわからない

文章書くのは好き。今から一筆書きでとこにたどり着くのかわからない旅に出る。誤字脱字は気付いた時に直すので、勘弁を。

 

 

俺は文章を書くのは嫌いじゃない。

 

ただ、パソコンでタイピングして書くのが早いし、あの両手をキーボードに乗せた感覚から脳に閃かせる何かがあるのは確実だ。

 

スマホフリック入力で書くのはそんなに好きじゃない。

 

早くはないし、編集がめんどくさい。

 

そして、キーボードに両手を乗せている時と文章のひらめき、発想の方向性が違う気がする。

 

このブログはだいたいスマホ入力。だから、時々億劫になる。

 

 

もちろん、いつでもどこでも書けるという、メリットはあるものの、スマホをいじいじするのはそんなに好きでもない。

 

 

一方、ニュースのチェックやいろんな情報はスマホで収集することが多いので、結局スマホでいじいじしている。

 

 

側から見たらブログを書いていようがニュースをチェックしていようが、そんなことは知ったことではない。

 

 

全く同じ光景が広がるばかりだ。

 

ただ、俺はこれについて唯一無二の知識がある、とか、これだけは誰にも負けんほど好きだから徹底的に調べてアウトプットするのだ、というテーマは今のところない。

 

 

これがある人が強いのは当たり前。いずれそこに持っていきたい。という気持ちはある。

 

 

でもそれがなくて、コピペでブログ書いてアフィリエイトに誘導する自称ネットビジネスの成功者(あくまで自称)がなんと多いこと。

 

 

ほんとに稼いでいるのか?稼いでいるのになぜ人を勧誘する必要がるのか?

 

 

答えは、前にも書いたが、稼ぐ方法教えます、という商材を売って稼ぐという、なにも価値を生み出さないビジネスだがなんだかわけのわからないことがぐるぐるしてるだけで、今頃始めた人は多分稼げていない。

 

 

それでも、プロフィール欄には脱サラして月収100万突破、とかって書いてある。

 

 

あれって本当なのかなー?なんで人に月収を言う必要があるのか?

 

 

たぶん、羨ましいと思って頼ってくる人が1000人いたらそのうち1人くらいは引っかかるからだよな。

 

 

だからフォロワーを増やしてユーチューブで釣って、ってことを教えるだけの商材だがなんだかが売れてしまうのだ。

 

 

だめだよ。こんな価値のないことで儲けてるやつについていっちゃ。

 

これは妬みでもなんでもない。本当に価値がない。信用を落としていくだけだよ。

 

とまあ、文章を書き始めたらやっぱりあっち行ったらこっち行ったりでどこに行き着くのかわからない。

 

 

だから文章を書くのは面白い、ということも言える気がする。

 

 

仕事では、好きなことを好きな発想で書くことは出来ないことが多い。

 

 

しかしここでなら自分の思ったことを自分の世界観でなにを書いても文句を言う奴は1人もいない。

 

 

そもそも、読者がいないのだから。

 

 

だれか、まだ見ぬ読者よ、俺は自分のために書いて敷くと同時に、あなたのために書いているということも、忘れないで欲しい。

 

 

スマホでここまで1200字、10分くらいの一筆書きで一気にきた。

 

 

やっぱ、書くことは何かを生み出す、つまりゼロイチの作業だからクリエイティブなこと。

 

 

そのクオリティはともかく、自分を表現することはダンスでも文章でもなんでもいいから、そういうことをあえてやっていくということはアイデンティティを確立させていく上でとても大切なことだ、と感じるわけであります。

 

おやすみ。

 

By Goro

ストリートダンスやるならスポーツ的にやれ

大学生時代ハマりにハマったストリートダンス。今ではめっきりやらなくなった。

 

 

てか、やる暇はないし、やってて発展性がない。それをやっててじゃあどうなるの?って聞かれたら、楽しいから、という以上の答えはない。

 

 

金が儲かるわけでもなければ、ダンスを人に教えたいわけでもない。楽しければいい、それだけ。

 

 

だが、昔は違った。

 

人よりも上手く踊ること、有名になること、後輩に教えて敬われること、生徒をたくさん集めること、これらが価値だった。

 

 

しかしそのゴールにはたどり着けなかった。

 

 

当時は戦略性も何もなくて、ただひたすらに練習に打ち込んでいただけ。

 

それもアスリートみたいにストイックではない。

 

なんなら、タバコを片手に鏡(とかドアの映るところとか)の前でひたすら、音楽をかけて体を揺らしてイケてる振り付けを思いついたら音にはめていって、作品ができれば友達とグダグダしながら振り付けを覚えて、なんとなくショーに出る。

 

この繰り返し。

全てが中途半端だったのだ。

 

もちろん、一時期は本当にストイックに練習にした日々もあった。タバコもやめて筋トレもして、汗だくになるまで息切れしても踊り続ける、そんな時期もあった。

 

 

だが戦略性はなかった。

 

 

だから何者にもなれず、社会人になって自然とダンスから離れていった。そんなダンサー友達はめちゃくちゃ多い。

 

なんなら一線で活躍しているストリートダンサーですら、当時はその程度だった。

 

 

シーンとして社会全体で突き抜けて行かなかった1つの理由がここにあると思う。

 

 

プライドだけが高くて、本気で這いつくばって練習するということはなかったし、どういうダンサーになって、どうやってお金を稼ぐのかという考えはなかった。

 

 

やっていればそのうち認められ、そしてどうにかなる、くらいの甘い考えだった。

 

そしてそんな日々に嫌気がさして辞める日が来た。

 

ダンスはスポーツでいい

 

1つ立ち止まって考えて欲しい。

 

高校時代の部活、そんなに甘っちょろかっだろうか?毎日足がつるまで走り、先生に怒鳴られ、試合に負けては泣き、合宿で馬鹿騒ぎし、好きな子にいいところを見せ、何もかもが本気だったよな?

 

これがアングラ生まれのストリートダンスには足らなかったのだと思う。

 

 

勘違いしないで欲しいのは、アスリートとして頑張っていた人たちもいた、そこは事実としてある。が少数だった。シーン全体として、チャラチャラとして、いきがって、社会に認められるような行動を取ってこなかった、ということもまた事実だろう。

 

 

ダンスがヒップホップカルチャーから生まれたからと、アングラにこだわることに意味はない。もちろんわかるんだけどね、Lifestyle Hiphop ヒップホップを貫く人のこだわりやかっこよさは。

f:id:goro-sakamoto:20190523222228j:image

 

でも、この時代、もはや、もっとスポーツや教育としての側面で捉えて良いと思う。事実、教育には取り入れられている。

 

 

ストリートカルチャーもオリンピック競技になったり、いろんな場面で目にする機会は増えた。

 

つまりダンスを続ける中で目指すところの選択肢が増えているということだ。

 

筆者はただ楽しければそれでいいのだが、こういうことはやっている当時に存分に考えて議論して、方向性を明確にしておかなければならなかった、と、ふと振り返ることがある。

 

 

自分の過去との分断

 

こうしたギャップを解消しないままにしていたことが要因で、「ダンスをやめた自分」と「ダンサー時代の自分」の分断があった。

 

社会人になってから、ダンスを頑張って上手くなった自分を誇りに思うと同時に、何も達成しないことに明け暮れた時間の浪費に対する後悔の念とが混在したまま時が過ぎていくことになった。

 

結局、人の目や評価ばかりを気にしていた、ということだろう。

 

人に認められないから辞める、認められるならば続ける、という具合に。

 

これだと全てが他人次第ということになってしまう。

 

 

もちろん、他人を変えるために自分が変わり、その影響で評価が変わるという循環はあるだろう。

 

 

しかし、その前のマインドセットとして評価を前提としていたこと、そのことに気づかなかった若かれし頃の自分に対して、言いたいことがある。

 

 

自分の良心にだけ従え

 

これはもうスティーブ・ジョブズのスピーチの通りだ。

 

やりたければやれ、ただ、中途半端にはやらな。そしたら振り返った時にドットは繋がるぞ。

 

今の僕は、楽しければやるしそうでなければやらない、だから上手く踊る必要もないし、毎日やる必要もない。クラブに行って音に乗り、酔っ払って少し激しいステップを踏む、こんなことができれば最高の夜を楽しめる。

 

 

それでいい、最高だ。

ダンサーとして失うものがなくなった時、ダンスが最高に楽しいものに変わる。

 

 

これって、気の持ち方として仕事にも当てはまる部分があるのかも。

 

 

いつでもやめていいという気持ちであれば上司の小言や面倒くさい社内政治、その他のことから解放されて好きなように振る舞える。

 

 

ただ、そこに到達するには、会社を辞めても生きていける、辞められたら困る存在という裏付けがなければ空回りするだけだろう。

 

もしそのような存在になれているのであれば、あなたの発言力は高まり、好きなことができる領域はぐんと広がる。

 

はあはあ、長い。疲れた。

めちゃくちゃだけど、おやすみなさい。

 

 

By Goro

 

トラブルのない旅は、山頂まで車で行く登山のようなものなのか

数年の海外駐在中、用務で帰国した。

 

すぐに慣れることではあるが、周りがすべて日本語なのが新鮮で、レストラ ンでは隣の人の話が筒抜けに耳に入ってくるという感覚に、 最初違和感があった。

 

 

「その話、聞こえているよ」という感じ。

 


ところで、当時(2016年)築地市場を訪れた際に、飲食店のオジ様オバ様たちが、3か国語(もしくはそれ以上)を駆使して客を呼び込み、接客をする光景を目の当たりにした。

 

 

当然、中国語、英語、韓国語、日本語、のあたりが多い。どれくらいのレベルでできているのかはわからないが、一見、客とのやりとり程度ならば問題なさそう。

 

 

日本語が通じなければ英語に切り替え、顔が中国人ポイ時は中国語、韓国人ぽければ韓国語という具合で、少なくとも、「えーっと・ ・・」と頭の中で考えて翻訳する日本人独特の間はなく、テンポよ くコミュニケーションが取れていた。ように見えた(不思議なもので、顔だけで東アジアの三カ国はだいたいわかるんだよなー。)。

 

 

これには横から見ていて正直に驚いたとともに、商人魂を感じずにはいられなかったし、日本のインバウンドが盛り上がってきていることを現場感として目の当たりにした瞬間だった。

 


築地も浅草も二条城も外国人だらけ。

 

 

さて、仕事上付き合いのあった日本在住のマレーシア人と話した時、「日本語が話せない」と言うので、「日本にいて日本語ができないと困難な場面があるのではないか」と質問した。

 

彼はこう答えた。

「全くそのように思わない。なぜなら、標識はほぼ英語が併記してあるため迷うことはない。もちろん10年前なら違っていただろうが 。また、多くの日本人は英語が理解できる。」

 

 

私は「つまり多言語対応は、訪日者を怠惰( lazy)にしてしまう側面があるということですね」 と言ったら、「まさに言うとおりだね」 と笑って答えてくれた。

 

 

その前に、日本人が英語ができるという件、正直違和感があった。本当か?

 

 

九州の地方出身の自分としては、ほとんどの日本人は英語を話せないと思っていた。実際、周囲に英語ができる人は知り合いとか同僚とか見回すと、感覚としては10人に1人もいないくらい。

 

 

ここで問題になるのは、何をもってできると定義するかということであるが、私の理解では「英語ができない人」は、学校で習っていて知識はあるが、日常的に使ったことがほぼ100パーセントないので、「使えないと思い込んでいる人たち」のこと、だからいざという時は本当に使えない。これが私の周りには90%を超えるくらいという感覚。

 

 

話を戻すと、マレーシアにおいても、ほとんどの市民に英語が通じるため、マレーシアで生活する限り、マレー語や中国語を学ぶ必要性はそれほど感じられなかった。

 

 

本当に相互理解を深めるには、 言葉も重要な要素であると思うが、だからと言って現地語の習得に拘っていては、外国に行くことさえも躊躇してしまうだろう。

 

 

逆に、コミュニケーションの取れない不自由さを楽しむことこそが旅の目的だという人もいるだろう。

 

しかし、水一つ買うのに苦労するのでは、やはり観光そのものの目的を達成するには、一般的に言ってハードルが高いと言える。その状況を楽しめる人は一握りの人たちだけ。

 

 

その土地に住んで時間をかけて当地の言語・文化について理解を深めていくことと、短期旅行でトラブルなく過ごすということとは、 やはり訪問者にとっての目的も違えば、受け入れ側のアプローチも当然異なるということであろう。

 

ちなみに、トラブルなく過ごすことが本当に良い旅なのかどうかという価値の問題は大いに議論の余地があるところだが、ここでは触れないでおこう。

 


蕎麦をすする音に対して外国人がどのように感じるかは知らないが、世界はとっ くの昔に「郷に入っては・・・」、とばかりも言ってはいられない時代になっている。

 

 

宗教に目を向ければ、排他的で厳格な線引きを する文化も依然として存在するが、文化や観光に目を向ければ、 訪れる人には「違いを受け入れる態度」が求められるとともに、 受け入れ側には「違いを認める寛容な態度」が求められている。

 

 

この「ギャップ」を小さくすれば、相互に気持ち良い交流が可能となるということであり、その方法が、多言語対応やハラル対応など、とい ったインバウンドの取組だと思われる。

 

 

マレーシアはイスラム教の国ではあるが、時と場所を選べば、豚肉やお酒も許容されている点で不自由はない。

 

 

一方で、時間にルーズ(口約束は守らない)、 公衆トイレが汚い、交通マナーが悪すぎるなど、大いに「 ギャップ」を感じる場面はまだまだ多く、これは自分の外国人としてみた際の受容力の側に問題があるということなのだろうと、この文章を書きながら自省の念に駆られた次第。

 

 

繰り返すが、「ギャップ」が大きい方が旅の思い出は色濃く残るという意味では、やはり旅の目的、何を得るか、といった価値問題については議論の余地がある。

 

By Goro