Goro-Sakamoto’s world

坂本吾郎(Goro)が語る。自分の考えをストックし、アウトプットしていきたい。でも考え方は変わるものなので、その時々の思考が常に最新とは限らない。

京都市長

記者会見のやりとりがホームページに掲載されている。大体これらは、一言一句書き起こしするのがプラクティスであると思うので、まさに即興でのやり取りだということになる。

 

たまたま京都市のホームページを眺めていたら、市長の門川氏、すごく秀逸なコメントで返すなー、と感心したのでご紹介しまーす。

 

(以下、市長記者懇談会(2019年6月20日)からコピペ)

 

記者

 最近,「祇園辺りを歩いているペラペラの着物を着た外国人はどうにかならないのか」と言われる方がおられました。観光客の服装も一種の景観であると思いますが,市として対策等を検討されていますか?

 

市長 

 どういう服装をされているのかというのは,大事な景観の要素であります。道を歩く人の服装,笑顔。あるいは,新しい景観政策で話し合っていただいている明かり,光,音,香も含めて,景観です。お茶屋の女将さんが,「隣の店から焼肉の香りがする。」と言っておられ,焼き肉屋さんが外に香りが漏れないようにされたという話も聞いたことがあります。

 着物については,最近,「よく見たら,良いものも増えてきているよ」ということもお聞きします。文化の違いで,日本人が大事にしてきた柄と外国の方が好む柄は違います。これはなかなか難しい面もありますが,質の良いものを着ている人が出てきています。現に東山区で正絹しか扱っていないお店もあります。4,5人のスタッフで,あまり儲からないけど,良いものを売っている。そうするとリピーターも増え,初めは外国人ばかりでしたが,今ではお客さんの半分くらいは日本人です。また,日本の若者達も着物を着はじめるといった傾向になってきています。したがって,批判も大事ですが,良いものを出していくということも大事です。

 着物産業,和装産業はかつてない危機的な状況で,西陣織は最盛期の5%です。しかし,最近の空前の着物ブームを,需要の開拓につないでいる方もおられます。そうした動きが大切です。全国の着物の小売店,生産者を含めた会合の基調講演でこんな話をしました。「和食・日本酒も危機的状況でした。どんどん日本酒離れ。料理学校を行く人の1割しか和食を学ばない。しかし,世界で和食がユネスコ無形遺産に認められて,世界で和食店が増え,約3倍の12万となりました。それに伴って日本酒が売れ,同時に日本でも和食が再評価されています。こういう流れがあります。これを,和装,着物の文化のほんまもんを追及していく契機にしていきたい。」

 トルコに行った時に,イスタンブール市長が「日本では男性も,公式行事や普段着として,民族衣装がまだ通用するのですね。トルコでは男性の民族衣装はなくなりました。正確に言うと,民族舞踊の人がその時にだけ着ています。しかし,日本は素晴らしい。」と仰っていました。100年後に日本がどうなっているのか。日本では外国人も含めて和服のブームがきています。それをどう活かすのかというプラス思考で,「良貨が悪貨を駆逐する」というようにしていかなければなりません。

 京都市では,御用始めは着物勤務を推奨しており,参加者が500人を越えました。他にも,祇園祭は浴衣,11月15日は着物の日です。私は毎日着物の日です。今年から,教育委員会が地域とともに,全小学校で全ての子どもが卒業までに一度は茶道の体験をする,中学校は卒業までに全員が華道を体験する,という取組を3年計画で進めています。今ならまだできます。団塊世代の地域の人が,お茶も生け花も若い時に学んでおられるからです。地域の力を得て,あらゆる茶道のお家元,華道33流派の御支援を得て,やっていきます。これが和の文化の親しみに繋がっていきます。

(コピペここまで)

 

このコメントがアカペラで出てくる市長、すごい人なのかもしれない。

 

だが、懇談会ということであらかじめアジェンダが設定されていれば、もしかしたら応答要領が準備されていたのかもしれないけど。

 

By Goro

台風の夜に思うこと

九州地方は珍しく、今回の台風の被害は受けなかった。と過去形で書いているが、関東地域は現在進行形で台風の襲来を受けている。

 

その被害の詳細はこれから明らかになっていくし、今世の中には知られずにも、実際の被害を目の当たりにして苦しんでいる方がいるのかもしれない。

 

ここで九州にいる人間にできることは何もなく、まだ見ぬ被害、被害にあっているで有ろう地域の人々のことに思いを巡らせることくらいしかできない。しかも、その思いが届くことは絶対にないし、届いたところで役に立つことは1ミリもない。

 

佐賀も先日大雨の被害を受けたし、それが今回は関東というだけだ。千葉の人など、ダブルで被害に合われる方もいるに違いない。何という無慈悲な世の中だ。

 

神様はいないのだろうか。

 

いずれにしても、明日からまた被害情報のニュースが駆け巡ることだろう。思えば東日本大震災あたりからだろうか、日本人の中に、助け合い、支え合い、というマインドがベースのところに根づきつつあるようにも感じる。その分災害が頻発しているということに他ならないが。

 

一方で、被害がなければ(それに越したことはないが)そのような心を思い出すことはないし、ついつい忘れてしまう。

 

だから、今回、役に立つことがないことは百も承知の上、今被害に遭われているであろう地域の人々のことに意識を寄せてみたい。

 

皆さん、どうか安全第一で生き延びてください。

 

By Goro

 

抑止力

「先輩、抑止力とは何ですか?一発うてばもう終わりでしょう。ならば核兵器5発も1000発も同じでは。たくさん持つことに何の意味があるというのでしょうか。」

 

それに対して先輩はこう答える。


「抑止力とは、一発でも撃ってみろ、報復として敵の戦力を徹底的に壊滅する兵器を我々は持っているぞ。そしてそれらかがどこにあるかはわからないだろうから、我々の戦力を無能力化することはできない。だからお前たちには先に撃つことはできないんだぞ、という状況を作ることです。だから、核兵器をたくさん、そしてどこにあるかわからないようにして持つことには一定の合理性がある。国際政治は理想だけでは回らないのです。」


「しかし先輩、私は、みんな持たなければいいのにと思うのです。世の中に、戦争を望み、まさかこ核兵器を本当に使おうという人がいるとは思えません。それとも、世の中は、ゲーム理論でいうところのナッシュ均衡にあり、パレート最適にはならないということでしょうか?あるいは、指導者が狂っていて、もう死んでもいいって思ったら、ボタン一つ押すくらいどーってことないというものなのでしょう。実際に核兵器を使えば世の中終わりだということは皆知っている。それなのに、軍縮だ、抑止力だ、と真剣に世界が議論している。なんだかそれって滑稽ではないですかね。いくら国際政治が経済、安全保障と複雑な思惑が絡まり合っているとしても、至ってシンプルに考えるべきではないですか?つまり、協力しないことよりも協力した方がお互いの利益になるという考え方を一斉にやるのです。これは弱者は侵略されるというリアリティを無視した議論でしょうか?」


「そうですね。」


「しかし先輩、最近の近隣国との関係を見ていると、政治が悪戯に国民の感情を刺激して関係悪化に拍車をかけているように見えるのです。つまり、民間交流や経済活動の延長にある二国間関係ではなくなって、安全保障問題が民間活動にもろに影響している。民主国家ではすぐに指導者が代わるので、トップ同士の好き嫌いとか主義主張に左右される国際関係って、常に危険と隣り合わせですし、これではそもそも、未来志向の関係って築けないのではないでしょうか?我々国民の関心は、今日明日のご飯、家族と未来の子供たちの幸せです。そのために何をすべきかということなんですよ。その考え方に立てば、隣国との関係悪化は選択肢にならないはずです。マスコミも変ですよね。集団的自衛権とか、どの国にも認められているものを、すぐに戦争したがっているだとか徴兵制だとかと結びつけてミスリードする。そして海外メディアは軍国主義の亡霊が復活しただとか言うんです。本当に意味不明です。リテラシーのない人はこういう情報で本当に日本に対してネガティブな印象を持ってしまうんですよ。中国は盛大に軍事パレードをやっているではないですか。なんであれは軍拡主義だ〜って日本の新聞は大騒ぎしないんですか?自衛権については、集団的がダメで個別的自衛権なら徴兵制にならないとか、あるいは戦争にならないという合理的な説明はあるというのですか?個別だって相手にその意思があれば戦争はいつだって成り立ちますよ。憲法に平和が謳われているから平和なんじゃない、戦争じゃないから平和に見えるだけなんです。官邸前のデモに参加してた人がテレビでこんなことを言っていました。『詳しくはよくわかんないんですけど、戦争に向かっていくのは嫌だなって思って、子どもたちを守るために参加しました。』って。詳しくわかんない?こういう人たちが世論だとか民主主義とかって言われてしまうのはおかしいでしょう。もちろん、間違いなくその発言者の考えは正しいと思いますよ。子供の幸せを願う気持ちを誰も否定できるはずがない。でもやっぱりずれているんです。まず、詳しく分かるまで勉強してこいとすら思います。感情だけで右や左と一斉に動くのは極めて危ないのではないでしょうか。」


先輩はこう続く。

「まず、外交にも戦争にも段階がある。私が君の意見が気に入らないからと言って、ここでいきなり君を殴るということにはならないのと一緒で、いきなり戦争になって、ましてや核兵器を使うということはない。それから、集団的自衛権がそれほど嫌なら、永世中立国になればいいという話です。我が国の領空を通過するなら、無条件に自国の武力でもって撃ち落とすと宣言するのに等しく、常に武装しておく必要があります。安保法制どころではなく、物凄く強烈なメッセージを持っているんですよ。ただし、自衛以外は戦争ができない、そこは日本と同じです。つまり、自国だけで自国を守るのであれば、それくらいの覚悟がいるということです。もちろん軍事費はかさみますよー。それを日本国民は望むのでしょうか?隣国も、我が国の存続をかけた安全保障問題に口を出すのなら、それこそ核武装も含めて検討しなければならないという理屈に行き着くのですが、それでよいのですか?官邸前のデモの参加者が本当に純粋な日本人かどうかは知りませんが、しかしそもそも、日本だけが平和主義をうたっているわけではなく、どこの国も侵略を正当化するような憲法などもっているはずがない。コーランだって、イスラム原理主義者の過激な行いを正当化するような経典ではないのです。」

 

 

「そうですね。やや物騒な話になってきました。ここは気を取り直して、ここらで葉巻でもふかしてお洒落に決め込みましょう。」


私は酒を飲んで政治の話をしてもろくなことにはならないと思い、話題を変えた。


「私はたばこの臭いは許せないが、葉巻の香りなら大丈夫だ。」

 

芋焼酎を好きな人は香りが好きというが、嫌いな人はあの匂いが嫌い、という表現をするらしいです。それと同じ感覚ですね、先輩。」

 

たわいもない会話を繰り返し、西新宿のお洒落な夜は更けていった。

佐賀県の山「脊振山」

脊振山は、福岡県福岡市早良区佐賀県神埼市との境に位置する標高1,054.6m、脊振山系最高峰の山で、日本三百名山の一つ。山頂には、航空自衛隊アメリカ軍のレーダーサイトがある(wikipediaより)。

 

ということで行ってみた。

 

まず、佐賀県側からの登山口を目指すが、わかりにくい。

 

県道305号線を、標識に従ってずっと脊振山の方向に行くと、田中酒店という小さな商店が角に現れる。

 

ここ。

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さらに、そこを左折して、山頂方面に向かう途中、脊振神社が左手に見えるが、ここかと勘違いしそうになる気持ちをこらえてもう少し進むと、左手側にあった。

 

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車はガードレールの内側に路駐しておく。

 

そこから、しばらくふつうの山道を歩いていき、水がちょろちょろと流れる小さな沢みたいなところを上がっていく。

 

途中にある泉はとても綺麗で癒される。

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これといった難所はないが、ふつうにトレッキングを楽しめる良い山だ。

 

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カエルもやたらとでかい。

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これ、大人の手のひらくらいの大きさ。

 

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山頂は霧で見晴らしは皆無だったので、良い感じの写真は撮り損ねたが、なかなかの楽しい山だ。

 

By Goro

 

風鈴は風流か?

ものの感じ方は人それぞれ、またそのタイミングや場所によっても左右される。


好き嫌いは相対的なものだ。


物事は多面的なので、見方によって感じ方、見え方が異なる。


では、風鈴は風流か。 


時と場合による、となりそう。


マンションなどの集合住宅での風鈴を想像しよう。


1時間に一発、「チン」となるだけなら風流かもしれない。

 

適量なら良い、と言うことだろうか。


でも人によったら、その一発に無性に怒りがこみ上げて我慢ならん、という人がいないとも限らない。


いや、この集合住宅に風鈴を付けようという行為そのものに憤りを感じる人もいるかもしれない。いずれ必ずうるさい風が吹く、分かっていて何故に風鈴を付けるのか、と。

 


東京北区のアパートに住んでいた時のこと。


どこからともなく風鈴の音色が聞こえて来た。それはそれは唐突に。

 

チン


最初の5分間は気にとめない。風のいたずらか、これで本当に涼しくなるのかな、はて、とか思っていた。だが、気づけばその日は風があり、1分に5回くらいは鳴っていた。 


最初は、気にしなければ気にならないか、とか思って耳を澄ませていたら、「チリンチリン!」ときたもんだ。


音量自体はまだ我慢できる、と言い聞かせつつ、耳を澄ませば、「チリンチリン!」。 


風がやめばおさまるから、それまで待てばいいか。


チリンチリン!


なかなか止まない。しかし風鈴というのはこの音が良くて鳴らすのだから、これはいい音に違いない。


チリンチリン!!


これ聞いて涼しくなる人っているのかな?さあ風鈴を聞こう、と言ってお茶とスイーツと、浴衣とうちわ、全てを準備してから聞くのが風鈴ではないのか?

 


チリンチリン!!!

 


ということは、風鈴の音色だけがあっても、「さあ聞くぞ」という準備が整っていなければ、それは必ずしも涼しくはならないのではないか?

 

聞こえてくるのが涼しいのではなく、聞きに行くから涼しい。

 


チリンチリン!!!!

 


そもそも、科学的に考えるとおかしいよね、音で涼しくなるってありえない。

 


チリンチリン!!!!!

 


でも音楽が気持ちを沈めたり、ニオイが記憶を蘇らせたり、五感と感情はリンクしているから、科学的に涼しくなる、という結論もあながち間違いではなさそう。

 


チリンチリンチリンチリン!!!


ハッ!

 


気にしないという理由を考えていることが、そもそも気になっているということではないか!

 

完全に風鈴に思考を乗っ取られてしまっていたのである。

 


ベランダに出てしばらく耳を傾けて音源を探しつつ外を眺める。


すると、一人の女性が一階の部屋の外に出ていた。


この人も風鈴が気になって音源を捜しに来たのかな?


「風鈴、うるさいっすよね~。」 
「あ、うるさいですか?!」 


ん?この反応は?


「う、うるさいですか?」
「あ、お宅のでした?」
「は、はい、気になります?」
「そうですね、少し気になります。」
「すいましぇ~ん!」  

 


その女の人はそそくさと部屋に戻り、直後に風鈴の音は聞こえなくなった。

 


と同時に、持ち主の顔が見えた瞬間、もう少し風鈴の音が聞きたくなった。

 

人間の感情というのが、いかにあてにならないか、ということをまざまざと感じた日であった。

自分の意識で世界が変わる

自分が変われば周囲が変わる

 

かつて、自分の世代よりちょっと早く始めたからというだけで、ダンスがめちゃくちゃうまい先輩に言われた言葉。

 

その時は妙に納得したもんだ。

 

自分のダンスが評価されないのはなぜだ

(本当は上手いのに)

 

ダンスコンテストで勝てないのはなぜだ。

(本当は上手いのに)

 

ソロバトルで勝ち上がらないのはなぜだ。

(本当は上手いのに)

 

そんなネガティブなことばかり考えていたような気がする。

 

今はコンテストで勝ちたいとか、バトルに出たいとか、毎日練習しようとすら、そもそも自分がまだダンサーであるとすらもはや思わないけれど、そういう気持ちになると楽で、ダンスを踊る機会があると逆に楽しめる。無論、日常的に踊っているわけではない。

 

昔は、上手くなって注目されることが目的だった。そして目的に到達するための手段を間違っていたのか、結果は伴ってこなかった。

 

思えば、単に中途半端にやらねばならぬことから逃げていたのかもしれない。そうして立派な目標に到達できない自分への言い訳の余地を残していたのかもしれない。

 

だが今は、(やるとすれば)楽しむことが目的に変わった。

 

もう結婚式の余興くらいでしか披露することはないけれども。いや、結婚式すら、もうだいぶ落ち着いて、呼ばれることは非常に稀なんだけれども。

 

とにかく、やるのであれば、楽しければいいやという気持ち。

 

これは、自分の気持ちが変化したことにより、自分が楽しめるようになって、そのことで周囲を巻き込んで余興プロジェクトを成功させることに繋がっている、という流れの一例だ。

 

もし昔のマインドで、上手く踊れやら、練習に来いやら、振り付けはこうでなければならない、とかなんとか言い出したら、素人の余興メンバーは白けてついてこないに決まっている。

 

そこで、なぜ俺の言っていることがわからないのか?という疑問を持ったところで何も解決しないし、誰も味方にはなってくれない。

 

つまりは、自分次第で世の中が変わっていくということだ。

 

世の中の面白くないことの正体は、多かれ少なかれ、だいたいこういうことかな、と思うことも必要かな、と感じるようになったような気がしないでもない、という感じ(回りくどい。。)。

 

譲れないものはもちろんあるし、気に入らないと怒ることももちろんある。

 

しかし、相手が何を求めているのか、自分の態度が適切か、という点などは一度自分の中で冷静かつ客観的に検証することが可能かもしれない。

 

それでも感情が邪魔をするのはよくわかる。

 

頭でわかっても許せないものは許せないし、損することがわかっていても貫きたいと思う時がどうしてもある。

 

むしろ、こういう気持ちを持たずに、長いものに巻かれてへこへこごますり人間が何を考えているのかさっぱりわからない。

 

しかし、それでも、やっぱりその場で自分を貫くことが後々しんどい思いをすることにつながることがあるのだ。

 

そこで意地はる必要があるのか、どうでもいいことなら譲ってはどうか、など、少し時間と距離を保って自分の意識と行動を観察してみよう。

 

もしかしたら、その瞬間的こだわりにそれほどの価値がなかったということに気づくことがあるかもしれない。

 

By Goro

 

 

 

時間の使い方

ブログを始めて半年くらい経ちますか、継続の難しさに直面しています。

 

価値ある記事を書くことはもちろん、ただただ続けると言うこと自体が難しいのです。

 

なぜか。

 

続けるにはモチベーションが必要です。

 

しかし、そのモチベーションが何か、と言うところに答えがないからでしょう。

 

アフィリエイトやってれば、収益がモチベーションになるかもしれませんし、双方向のコミュニケーションができていればそのやりとりが楽しい、と言えるかもしれません。また、単純にアクセスが増えていれば、それが気持ちいい、というのもあるでしょう。

 

しかし、そのどれもない。

 

ただただ書き続けているというだけの状態では、モチベーションがなかなか上がりません。

 

でもよく考えてみたら、ただ記事を書くということだけがなぜ難しいのか、というのは不思議な気もします。

 

ただ書きさえすればいいのですから。

 

そこには時間の使い方という問題が絡んできそうです。

 

何かをやりたい、やらなければならない、けど時間が取れない、というのはよく聞く言い訳です。実際、本業が忙しくて、記事を書く時間が取れない、ネタを集める時間が取れない、という方は多いでしょう。

 

もちろん時間はすべての人に平等に24時間が与えられていますので、この時間の使い方をどう配分するか、がとても大きな問題になります。

 

ブログを書かずにテレビを見ている、ブログを書かずに本を読んでいる、なんでもいいですが、スマホを見ている、など、何かと比較した時にAをやらずにBをやっている状態というのがあるとすれば、単純に、Bに優先順位を置いているから、というだけの話でしょう。

 

本当はAがしたいのであれば、Aを優先すれば良い、それだけのこと。

結局、またモチベーションに立ち返ってきます。

 

今結果が出ていなくて、この努力が意味あるものかどうかが不安、という気持ちは理解できます。なんのためにやっているのかわからないというわけです。

 

事実、私もそうだし。

 

でも、だからこそ、結果の出た状態を見越して今からそこに価値を見出すのではなく、結果を出すために努力して、その努力のドットがやがて繋がるという信念を持って続けている状態に価値を見出せば、それはそれで一つのモチベーションになりうるというものでしょう。

 

努力の仕方が間違っていたら結果には繋がらないといいますが、正しい努力を探すことも努力に含まれる、とキングコング西野さんも言っておられます。

 

今日は、出勤前の五分間を利用して、一筆書きの記事を書こうと久々に思えたので、この記事をアップし、朝から少しだけ仕事に対するモチベーションも上がりました。

 

By Goro