Goro-Sakamoto’s world

坂本吾郎(Goro)が語る。自分の考えをストックし、アウトプットしていきたい。でも考え方は変わるものなので、その時々の思考が常に最新とは限らない。

久住高原

大分にある山岳地帯、九州アルプスと呼ばれているとかいないとか、いわゆる久住高原にプチ旅行で行ってきた。

 

久住高原といっても、近くには九重町とかあったり、九重連山といったりするので、なんだか混乱する。

 

気になったのでネットで調べてみると、最近は「くじゅう」と書くことが増えているとか。

 

ちょっくらwikipediaを引用してみよう。

 

———引用ここから———

この地域の名称としては、「九重」(くじゅう、ここのえ)と「久住」(くじゅう)の2通りの表記及び読みが用いられてきた。

その起源は、延暦年間(800年頃)にこの地に九重山白水寺と久住山猪鹿寺の2つの寺院が開かれたことにさかのぼる。近代に入ると、山群の北麓に九重町(ここのえまち)、南麓に久住町(くじゅうまち、現・竹田市久住町)が誕生したことから、それぞれの表記が特定の地域に結びつくことになり、地域全体を指す時にどちらの表記を用いるかという問題が大きくなった。

 

現在では、火山群や周辺地域全体を指す場合に「九重山」や「九重連山」を用い、その主峰である単独の山を指す場合に「久住山」を用いるのが一般的である。

 

また、近年では、混乱を避けるためにひらがなの「くじゅう」を用いることも多い。

 

例えば、「阿蘇国立公園」にこの地域の名称を加えて改名する際には、「九重」と「久住」のどちらかにするかで長らく論争が続いたが、「阿蘇くじゅう国立公園」とすることで決着した。また、坊ガツル・タデ原のラムサール条約への登録名も「くじゅう坊ガツル・タデ原湿原」とされている。

———引用ここまで———

 

ということらしい。なんとなく納得。

 

まあ、名前はどうでもいいとして、この辺りの景色がじつに素晴らしい。

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これは長者原ビジターセンターから見た山である。

 

大分は言わずと知れた温泉の街。高原では下界を見下ろしながら露天風呂に入ることもできるなど、とても開放的。

 

なんなら、露天風呂まで各部屋から外を通って直接いくことができる。もちろん、男性風呂までは、であるが。

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なお、1700メートルを超える立派な山である久住山に以前登った時は、それほどハードではなかった記憶がある。なんなら、子供でもいけそうだ。

改めて、いくつか山を制覇したい気持ちに火がついた。小さな子供も含め、家族で登りたい。

 

By Goro

 

別れは突然にやってくる

別れ

 

出会いがあれば別れがある

 

別れは出会いの始まり

 

別れがあって次の物語が始まる

 

わかっている

 

しかしつらい

 

一時的なものであって、この先には必ずいいことがあるってわかっていても、今はつらい

 

つらく悲しい

 

だけど

 

悲しいという表現は君に失礼なことだと思うんだ

 

なぜなら

 

君と歩いてきた道はとても楽しい思い出だから

 

こんな悲しい気持ちにさせてくれる思い出を持った自分はラッキーなんだ

 

だから

 

この別れについても、やはり、ありがとうと言わなければいけない気がするんだ

 

ありがとう

 

いっぱいいろんなところに行ったね

 

東京から九州まで一緒に来たこともあるね

 

君といる間に

 

最初は1人だった子供が、いつのまにか3人にまで増えちゃった

 

家族とずっと共にしてきたんだね

 

海外にいるときは寂しい思いをさせたかもしれない

 

でも君は文句ひとつ言わずに、ずっと待っててくれたね

 

再会した時はとても嬉しかったのを覚えているよ

 

特に後ろ姿が好きだった

 

もちろん、前から見た顔も好きだ

 

でも、最近の君はすぐに不具合を起こして困らせることも多かったね

 

何しろお金がかかって大変だったよ

 

海外から来た君は、いろんなものが高いんだよね

そして、もうすぐどうしてもパスしなければならない試験があるんだって?

 

それをパスするにはどうしても大規模な手術が必要になるんだって?

 

ごめんよ

 

僕は君のことが大好きだし、その気持ちはずっと変わらない

 

けど、その手術をさせてあげるわけにはいかないんだ

 

延命治療は反対なんだ

 

生かされても意味がない

 

やはり、自分で力強く生き抜くべきなんだ

 

そして、君は立派に生きた

 

それを知っているからこそ、今回の手術はやらないことに決めたんだ

 

え、まだ行けるのに?

 

わかっているよ

 

君はまだ走れる

 

だが今決めないと、取り返しのつかないことになってしまうんだ

 

もう後戻りのできないタイミングになっちゃったということだよ

 

わかってほしい

 

つらい

 

悲しい

 

でもありがとう

 

そしてさようなら

 

君はうちの家族の一員として立派に務めを果たした

 

増えた家族が安心して乗れるよう、もう少し大きな車を買うことに決めたんだ

 

だから、君とは今日でお別れだ

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ありがとう

 

フォルクスワーゲン

 

ありがとう

 

トゥーラン

 

カブトムシ見つけたぞ!

虫は山にいる

 

そう思い込んでいた。

 

しかし、前回探し回ってとうとう見つけられなかったように、山に行けばどんな虫でもどこにでもいる、というのは完全に間違い。

 

カブトムシなんて、そこら中にいる、キャンプ場にでも行けば夜寄ってくる、なんて思うのは言うまでもなく嘘だ。

 

クヌギがあれば必ずいると言うわけでもない。

 

本当は、自分で探して自分だけのスポットで見つけて捕まえてみたかった。しかし、前回の山で懲りた。あてもなく探し回っても見つけられるような狭い世界ではない。

 

ももちろん、何日も山の中を歩き回って、スポットを探すための旅にでも出られるのならば話は別だが、そうはいかない。限られた時間の中で息子に成功体験をさせてあげなくてはならない。それが父の役割だ。

 

もちろん乱獲は良くない。全ての小学生が一匹ずつ捕まえたらカブトムシの世界は大変なことになるかもしれない。その辺りの倫理観は頭の片隅に持っておこう。必要以上には採らない。

 

しかし、カブトムシを採ってみたいという息子の想いには応えてあげたい。これまで何冊も昆虫の本を読んできた、知識と好奇心は本物だ。ただ興味本位で乱獲して生態系に悪影響を及ぼすとか、そういう次元の話ではない。カブトムシが欲しいだけなら、その辺のショッピングセンターにでも売っているではないか。

 

しかも、それを買って満足するようなら、それこそ虫の乱獲に寄与してしまうというもの。

 

息子に味合わせたいのはそう言う偽りの満足感ではない。

 

蚊に噛まれながらも自然にいる虫を探し、蜜に群がる蛾や他の虫達と合わせてカブトムシがどのような様子で生存しているのか、これを観察して自分の手で捕まえること、これこそが教育に他ならない。

 

虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ!

 

それもダメ、という人もいるかもしれないが、それは、息子が自分で命を感じでくれたらいいし、そのことで息子の成功体験を取り上げたくなかった。

 

そんな思いで、友人に教えを請い、スポットを聞いた。

 

快く教えてくれた。

 

そして、昼間のうちにロケハンに行った。

 

クヌギが二本だけあった。

 

蜜がたんまりと出ている。

 

よだれものだ。

 

昼間は蜂もいて危険なので、場所だけ押さえて、夜また戻ってくることを誓ってすぐに退散した。

夜、現場に行った。

 

準備は万端だ。

 

蚊に刺されないように長袖長ズボン、登山靴、ハット、ヘッドライト、長い虫取り網、虫かご、軍手。

 

木の下に着いた。

 

いた。

 

いきなりいた。

 

カブトムシだ。

 

飛んでいる。

 

どこに行く?飛んでいたらセミに見えるぞ。

 

落ちてきた、カブトムシは飛ぶのが得意ではないのか?

 

地面に着地した。

 

黒い。

 

ゴキブリに似てるぞ?

 

いやそれは失礼だ、相手は天下の人気者、カブトムシだ。

 

網をかぶせた、逃げない。

 

採った、採ったどー!

 

息子が喜んでいる、夢みたいだ、とまで言ってくれた。

 

カゴに入れよう。

 

軍手にくっついて入らない、てか、離れない。

 

なんとか外して押し込んだ。

 

次。

 

もう一つの大きなクヌギの木を見に行こう。

 

いた。

 

ほんの5分前はいなかった場所に、立派なカブトムシがある。

 

茶色い。

 

でかい。

 

こいつは強いぞ。木から離れない。

 

網をかぶせた。

 

だが網に入らない

 

ただひっぺがそうとするも、もう力が半端やない。

 

無理やり剥がそうとすると息子が吠える。

 

「足が取れるからやめて!」

 

うーむ、ならば根気よくカゴに入るまで待とう。

 

蚊だ、蚊が多い。食われてしまう。

 

早く帰りたい。

 

カブトムシを二匹持って帰ったらじょうできではないか。

 

二匹に名前をつけようと息子が言い出した。

 

一匹目がカブタ、二匹目がカブキ、だそうだ。

 

毎日昆虫ゼリーを与え、世話をしている。

 

本当に飼ってみたかったんだろうな、そして自分で捕まえてみたかったんだろうな、可愛い奴め。

 

と思った。

 

そして宿題の絵には、虫取りの様子を描いたようだ。

 

絵のクオリティはともかく、とても思い出に残った虫取り体験だったということで、親としてはいい経験をさせられたことで満足だ。

 

By Goro

公務員というお仕事の負の側面

官僚制は効率のために生み出された


官僚制とは、本来は合理的な管理・支配の制度として生み出されたものらしい。なるほど、ほとんど全ての行政行為にはルールがあり、事務を行うための手順が決まっている。

 

効率的といえば効率的。誰がやっても結果が同じになるのだから。

 

しかし、とある元県知事さんは、「誰がやっても同じ結果になることは仕事とは言わないのだー!」と声高に主張されていた。全くその通りだと思う。

 

難しい専門試験をくぐり抜けてきた優秀な行政職員が、ただの資料を集めるコマ、上司の手先としてしか機能していないのは大変もったいない。

 

すでにお気付きの通り、イメージとしての行政機関の仕事は、「人間性に対する配慮が欠け」、「組織全体よりも自分の所属の利益を優先し」、「外部に威圧的な態度をとり」、「規則の適用を重視するあまり人間的な配慮が足りていない」などといった逆機能が生じることがあるのだ。

 

断っておくが、公務員批判をしたいわけではない。あくまで、そういう側面がある、という話だ。昔から言われてることって、未だに存在するんだよ、ということを改めて書いているだけだ。

 

もちろん、そうでない好感のある公務員もいるのはいる。そして、彼らが少数派であるとまでは言わない。昔よりも、皆、だいぶ県民市民目線での態度になっているのは認めよう。いいやつばっかだ、

 

しかしだ。

こと、内部の事務や意思決定に係る手続きにおいては、極めて非人間的な注文、作業が引き続き発生しているのだ。くそったればっかりなのだ。

 

規則や命令を重視しすぎると、守りさえすればよい、監査から指摘されないように、というの発想になり、形式主義的、事なかれ主義的に陥ってしまう。また、外部の住民側には、面倒な手続きをおしつけて利便性を損なう、場合によっては本来の目的が達成されないなどの弊害がある。

 

 

そのような意識はまた、各部門の利益ばかりを考えるセクショナリズムを生み、責任の回避、秘密主義、権威主義といった欠点を抱えることになる。


行政組織はヒエラルキー

 

公務員は上司の指示には従わなければならない。公務員に限った話ではないかもしれないが。。しかし、特に中間のしょぼいおっさん達に多いが、上下関係の階層意識が強すぎて、下層への無関心を生んでしまっている。

 

もう、上だけで議論して決めるのであれば、勝手にやってくれという世界だ。

 

こうした官僚制の逆機能によって、本来は合理的なはずの業務が、非効率的で、非人間的な面白くないものに変わってしまっている。

 

 

官僚主義」あるいは「お役所仕事」 という響きは、公務員にとっては実に不名誉なものだろう。

 

しかしながら、なんと30代の若者であっても、すでに行政職としての経験を持っていたら、杓子定規で融通が利かず、公平性ともっともらしいことばかりを振りかざした画一的な対応により、気づかずに非効率な組織へと邁進している者も実際にいるのだ。会計処理などのルールを適用すべき場面に限らず、解釈を持ち込む余地があるにもかかわらず、だ。

 

昨年と取り扱いが違うのは困る。

担当によって対応が異なるのは困る。

 

そりゃーその通りだ。

 

だけど、ならばその昨年の前任者の対応が本当に正しかったのか、なぜその対応が唯一絶対の尺度になってしまうのだ?そうではなくて、今、正しいと考えられる対応をその都度していくべきではないか?

 

これはあくまで、コロコロ変えるというネガティブなことではなく、改良を重ねるというポジティブ思考だ。


こうした弊害は、職員が規則やルール、前例、上司の命令などに忠実であろうとし、公平性を確保しコンプライアンスを遵守しようと公務員の鏡のような者だからこそ引き起こしやすい。

 

悪気はないだろう。しかし迷惑だ。

 

どっちに転んでも結果が変わらない細かなことは、結局、どっちでもいいのだ。

 

そんなことを議論してペーパーにまとめて右か左かの取り扱いを整理する、といったほとんど意味を感じない作業が日々延々と繰り返されているのだ。

それで働き方改革だ、時間外の削減だ、多様性を認める社会、差別、いじめのない社会、などと綺麗事ばかりが並ぶ。

 

つまり、規則やルールの手段が、それらを守ることこそが正義という目的に成り下がってしまうのである。

 

大変くどくどと書いてしまったが、もっと気楽にいきたいねー、ということに尽きる。

 

By Goro

 

カブトムシはどこにいる?

息子が朝からカブトムシいきたいというので、とりあえず行ってみることにした。

 

しかし、どこに行けばいいのかわからない。カブトムシを捕まえるならまずはロケハンだ。

 

クヌギ林があれば、そこに行けばいくらかはいるのかもしれない。しかし、クヌギがたくさん植えてある場所が、数多ある山々の中のどこにあるのかは定かではない。

 

これ、行き当たりばったりで夜中に山に出かけたら危ないぞ。ただただ彷徨って終わりということになりかねない。

 

そもそも、子供の頃にとったことがない。興味がなかったのだ。なんとも子供らしくない子供時代じゃないか。

 

ならば、キャンプ場近くなら何かわかるかもしれない、と思い近場の金立教育キャンプ場をめがけて行ってみた。

 

スタッフらしき若者に聞いてみると、「クヌギはあの辺にしかないっすからね、朝にはクワガタも出ますよー」とのこと。

 

あの辺、ってどのへんだ?と思いながらも、指さされた方向に歩いてみると、たしかにあった、クヌギが2〜3本。

 

だが、斜面に立っている。これは子連れでは無理だ。まして、虫取り網と手袋くらいの装備では危険だ。滑落、蜂刺されなどの被害に遭う。

 

悩ましい。

 

別の情報はないか、友人に聞いてみたら、肥前仏舎利塔付近にいるときいたことがあるぞ、牛の尾梅林にいるときいたことがあるぞ、黒髪山キャンプ場で見たぞ、と口々に言うので、先程下見したキャンプ場と合わせて候補地として絞り込んだ。

 

お気づきだろうか。全て佐賀である。

 

子供の喜ぶ顔がかかっているとしても、自分にとっても生まれて初めての経験だ。失敗して当たり前。

 

だが、子供達には成功体験をさせてあげたい。しかしどうやって?

 

いや、これはまずは行ってあげることが一つのステップであるとも言える。そんなに簡単にはいないぞ、ということを理解するチャンスだ。

 

朝四時に起床。車に乗せこみ、目的地(肥前仏舎利塔)に向かう。そういえば、友人はこうも言っていた。

 

「カブトムシを取るなら夜から行くのだ。朝はいない」

 

それならばそれでもいい。キャンプ場の兄ちゃんが言うようにクワガタがいるかもしれないじゃないか。

 

それよりも、山の夜道はどこか不気味だ。雑草は生い茂り、蜘蛛の巣が道を塞がんばかりだ。人の入ってい?気配がない。大人でも少し怖い。

 

子供達も恐怖を感じたのか、車から降りないと言い出した。ゾンビが出そう、と言うのだ。うーむ、たしかに。大人でも暗闇は少し怖いのだ。

 

仕方がないので、車窓からクヌギっぽい木を探すも、見当たらない。

 

だめだ。ここは怖いし歩いては探せない。ならば場所を変えるのだ。

 

そうして牛の尾梅林に行ってみた。ここはいくらか拓けている。空はうっすらと明るみだしている。

 

ここは梅林だ。梅の木の他にも色々あるようだが、クヌギは見つからない。どこかにはあるのだろうが、それを行き当たりばったりで探してもなかなか当たらない。

 

カブトムシ採取のためのロケハンの重要性をまざまざと感じ思い知った。

今日は不発。子供達には申し訳ない。

 

SNSでは、カブトムシを捕まえてきた〜、という投稿がちらほら投稿されている。なぜだ、なぜそんなに簡単に見つけられるのだ。

 

きっと彼らは、幼少期に父親に連れられて行ったことのある経験者だ。そうに違いない。

 

ここは謙虚に、教えを請いたい。

 

By Goro

 

沈んだ時は行動してみる

色々と人と会って行動してる時って、相手からお誘いの話が入ってきたり、相談されたり、という「流れ」が良い。

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(写真は無関係)

 

反対に、事務処理ばっかりやってる時期(仕事上、そういう時期もある)って、人と会わないしあまり話もしないし、クリエイティブでないなー、と思い悩むことがある。

 

そんな時にこそどう行動するか、がきっと大切なんだし、そうすることで仕事だけではない世の中との繋がりを感じることができるようになるのだと思う。

 

ただ、そうは言っても誰でも彼でもうまくタイムリーに「行動」できている人ばっかりではないだろうし、そもそも「行動」という単語が何を指しているのかが不明確だったりする。

 

それで、行動って言ってもそんなに時間があるわけでもないし、本職との関係もないし、役職が足りないし、とかなんとか色々言って「行動」しないための理由を正当化しようとするのだ。

 

恐らく、ほとんどの人間、とりわけ会社員はこんな感じのマインドを持った人ばっかりなんだと思う。

 

それで年金足りないとか、金返せとか、もはやなんのクレームかわからないことで怒り出すわけです。批判は簡単。

 

もちろん、私も何者でもないただのサラリーマンではある。そして、人間を2つのカテゴリー、すなわち、行動する側と行動しない側に分けるとするならば、行動しない側にいるのだろうと思っています。

 

だって、俺は行動している!と言って宣言したところで、別に何かいいことが起こるわけでもないです。あくまで行動をするかしないかは、その基準が自分の内心にあるのではなく、なんらかの目に見える尺度として客観的に存在しているものだとすれば、自分で自分が行動していることを宣言する必要がないということになるし、そもそも宣言できるほどやっていないという自覚もあるわけです。

 

はい、何が言いたいのか、よくわかりませんね。私、時々こういうことがあるんです。

 

何が言いたいかわからないけど、なんだか心の中のモヤモヤをなんとか言語化したい、と思って描き殴ったら、やっぱり意味不明な文章になっちゃった、的なことが。

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(写真は無関係)

 

さておき。

では、行動ってなに?という話なんです。

 

このとにかく行動!という成功者や成功を目指して突っ走っている人はよく目にする。

 

実際に毎日話題を提供できるほど動きまくっている人もいる。

ブログやツイッターでは、そういうことをやたらと表現して「ネットビジネス始めました」、「自由を手に入れました」、「おじさんのいうこと聞いて安い給料で、いつまでそんな生活を続けるんですか?」、「脱サラしてよかったと心から思います」、的な言葉が踊る。

 

こんなことを言っているひとたち、恐らく稼げていない段階の人が多いのだと思います。もしかしたら稼いでいるのかもしれないけど、そんなことは俺には関係がないし、関心もない。

 

彼らは、行動しましょうよ、と言ってネットビジネスに勧誘して情報商材を売るような形のものに価値はないし持続可能なモデルでもない。多分、こういう人たちが多いのです。だから、ある意味で、そのような人たちを量産した世代(情報商材を売りつけることに成功した世代)は実際に稼いでいるのかもしれませんけど。。

 

はい、話が逸れまくっている。

 

私が言いたいのは、たとえそうだとしても、こういう商材に手を出すことも1つの行動なのかもしれない、と言うこと。知らない世界に飛び込んで、騙されてみるのも経験だし、稼げるならそれはそれでいいし、失敗から学ぶことがあるからだ。

 

だから、その行動自体を否定はしない。しかし、そのビジネスモデルには関心がないし生み出す価値もない、と思っているだけ。

 

人と会ってみるだけでも行動だと思う。誘うのを躊躇していた人を誘ってみる、いつもは話しかけない人にお疲れ様と言ってみる、仕事帰りにいつもは行かないカフェで読書をしてみる、ジョギングしてみる、朝活してみる、飲み会を企画してみる、うーん、無限にある。

 

つまり、これをやったら成功します、とかなく、逆に、これは行動とは呼べないよというものもがあるわけでもない。

 

自分で「流れ」を引き寄せるためにポジティブに動いてみたのであれば、全て「行動」だと思います。それが結果に繋がらなければ、改善するために必要だった行動だったという意味で価値を持ちます。

 

ただし、私は成功者ではないので、これが正解かどうかはわかりません。ただそう思ったので、そんなことを言うためにこの記事を書いてみました。

 

これも1つの行動でしょう。はい、宣言してしまいました。

 

By Goro

 

マレーシア帰りに日本を思う

マレーシアという国

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かつて2年ほど住んでいたので、自分の第2の故郷的な思い入れがある。帰国して、2年ぶりに訪問して改めて好きになった。

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飯うまいし。ココナッツミルクをカレーに入れたら絶品!

 

この愛着とか郷土愛みたいなものってどこから来るのだろう。一度住んだことがある街のことは好きになる。それが自分の生まれ育った地元なら?もっと好き?無条件に好き?

 

うーん。正直言って、必ずしもそうなるとは限らないのではないか、という気がする。もしかしたら、みんな生まれ育った街は好きなのかもしれないけど、そうでない人もいるのではないか、という気がしてならない。

 

そして、そう思っている人がいたとして「あたし、地元嫌いだから」って積極的に発信する必要はない。それをやることによってあいつは東京かぶれ、とか都会かぶれ、とか、地元を捨てたやつ、とか、いろんな意味で批判にさらされる危険を冒してまでやる必要性がない。

 

だけどそもそも、地元(田舎)では、こんな美味しいものや、こんな魅力的な観光地、物産などがあると必死にPRしているが、そんなに心の奥底からそこが一番とは思ってますの?仕事やからいうてるだけちゃいますの?

 

逆にいうと、地元に10万人のコミュニティか何ががあったとして、全員が地元最高!って思っている状況って怖すぎるだろ?という話なんです。洗脳という言葉が最もしっくり来る。

 

もっと自由に意見していいし、地元最高という奴もいればそうでない奴もいていいやないかと。

 

自治体職員って、その地域にコミットして税金から給料をもらっているのであれば、その街が最高最高というのが住民に対する義務であるかのように思っている人も多いかもしれないけど、多様性の世の中、とか、寛容な社会、とか、そういうことを目指す世の中で、なぜ特定の分野では不寛容、同一性を重視するような圧力が働くのか。

 

例えば、人口減社会が問題だとして、少子化も社会減もトレンドとしては変わらない。これを変えようと必死に囲い込みの発想で、高校生に県内就職を勧める。そして県内就職率とか数であたかも自治体が人口減少を食い止めたかのような実績として説明する。しかし、社会減のトレンドは一向に収まる気配を見せない。

 

もう、これ、田舎から東京や世界に一度出てみたいという好奇心や向上心を伸ばす方向に変えたほうがいいのではないか?「県内で就職しましょう」という代わりに、「県外で広い世界を見てきて、その知見や能力をいずれ地元に還元してください!」と言ったほうが地元を好きになるやつが増えるのではないかな?逆転。

 

かたや、グローバル教育、多様性、多文化共生、世界の基準でー、といかにも世界を見てます風なビジョンを掲げつつ

 

かたや、地元就職率を上げろー、地元の歴史に誇りを持て、海外研修メニューを減らして人材を囲い込み、ネクタイをはめろ、ルールだなんだと型にはまった経営を敷く。

 

これ、どうなのよってお話なんです。これが嫌なら会社を去るべし、と言われたらそれまでなんだけど。

 

もう少し、本当の多様性とか、本当のグローバル基準とか、いろんなものを知った上で述べてほしいな、と思うわけであります。

 

その点、マレーシアの仕事の仕方、これがいいのか悪いのかは別問題として、イライラするところと、これくらいでいいんやなー、と感心するところとが複雑に絡み合ういい具合のカオスな国やなー、と思います。

 

民族も別だし言語も多様。人の見た目から違う社会で、これが当たり前という価値観ができにくいのだろうと思う。だからみんなすごくオープンだし、適当だし、人間らしい。

 

バーでビール頼んでお釣りが10分くらい返ってこなくて、お釣りを返してくれ、とお願いしても「あと3分で来る」と、謎の返答があって3分たっても返ってこないから、もう一度「お釣りを返して」と言ったら、今度は「あと1分だ」と謎の回答。そして5分くらいしたら、誰かがレジにキャッシュを補充してからお釣りを持って現れる。そうして無事にお釣りが返ってくる、というような感じだ。なんだかみんな適当だけど、それでも世の中なんとなく回っている、という雰囲気。

 

要するに寛容なのだ。

 

ルールに厳しく、時間厳守、精密で気の利くおもてなし、というような点が日本の優れたところかのように言われることがあると思うが、そうであることを否定まではしないが、そうであるからこそ、日本の社会は不寛容になっているという点を指摘したい。

 

時間に正確ということは、時間を守らないことに対して不寛容であるということ。電車が遅れてクレームしているじーさんを想像すればいいだろう。

 

過剰サービスがあたりまえ、という風になれば、適当な接客に対して切れる、という客も多かなるだろう。

 

日本のそういうところがギスギスして気持ち悪いと思っている人は結構多いのだと思う。

 

そして、そういう問題点を認識しながらも変わらない会社や世の中に諦めかけている人も多いのではないかと思う。

 

地元の愛国心を煽る踏み絵的な教育や行政の取組なんかも、この観点から見ると、すごく同調圧力の強いリーダーが発案しているんだろうな、と思ってしまう。

 

私は多分、ひねくれもんなんです。

 

By Goro