Goro-Sakamoto’s world

坂本吾郎(Goro)が語る。自分の考えをストックし、アウトプットしていきたい。でも考え方は変わるものなので、その時々の思考が常に最新とは限らない。

公務員というお仕事の負の側面

官僚制は効率のために生み出された


官僚制とは、本来は合理的な管理・支配の制度として生み出されたものらしい。なるほど、ほとんど全ての行政行為にはルールがあり、事務を行うための手順が決まっている。

 

効率的といえば効率的。誰がやっても結果が同じになるのだから。

 

しかし、とある元県知事さんは、「誰がやっても同じ結果になることは仕事とは言わないのだー!」と声高に主張されていた。全くその通りだと思う。

 

難しい専門試験をくぐり抜けてきた優秀な行政職員が、ただの資料を集めるコマ、上司の手先としてしか機能していないのは大変もったいない。

 

すでにお気付きの通り、イメージとしての行政機関の仕事は、「人間性に対する配慮が欠け」、「組織全体よりも自分の所属の利益を優先し」、「外部に威圧的な態度をとり」、「規則の適用を重視するあまり人間的な配慮が足りていない」などといった逆機能が生じることがあるのだ。

 

断っておくが、公務員批判をしたいわけではない。あくまで、そういう側面がある、という話だ。昔から言われてることって、未だに存在するんだよ、ということを改めて書いているだけだ。

 

もちろん、そうでない好感のある公務員もいるのはいる。そして、彼らが少数派であるとまでは言わない。昔よりも、皆、だいぶ県民市民目線での態度になっているのは認めよう。いいやつばっかだ、

 

しかしだ。

こと、内部の事務や意思決定に係る手続きにおいては、極めて非人間的な注文、作業が引き続き発生しているのだ。くそったればっかりなのだ。

 

規則や命令を重視しすぎると、守りさえすればよい、監査から指摘されないように、というの発想になり、形式主義的、事なかれ主義的に陥ってしまう。また、外部の住民側には、面倒な手続きをおしつけて利便性を損なう、場合によっては本来の目的が達成されないなどの弊害がある。

 

 

そのような意識はまた、各部門の利益ばかりを考えるセクショナリズムを生み、責任の回避、秘密主義、権威主義といった欠点を抱えることになる。


行政組織はヒエラルキー

 

公務員は上司の指示には従わなければならない。公務員に限った話ではないかもしれないが。。しかし、特に中間のしょぼいおっさん達に多いが、上下関係の階層意識が強すぎて、下層への無関心を生んでしまっている。

 

もう、上だけで議論して決めるのであれば、勝手にやってくれという世界だ。

 

こうした官僚制の逆機能によって、本来は合理的なはずの業務が、非効率的で、非人間的な面白くないものに変わってしまっている。

 

 

官僚主義」あるいは「お役所仕事」 という響きは、公務員にとっては実に不名誉なものだろう。

 

しかしながら、なんと30代の若者であっても、すでに行政職としての経験を持っていたら、杓子定規で融通が利かず、公平性ともっともらしいことばかりを振りかざした画一的な対応により、気づかずに非効率な組織へと邁進している者も実際にいるのだ。会計処理などのルールを適用すべき場面に限らず、解釈を持ち込む余地があるにもかかわらず、だ。

 

昨年と取り扱いが違うのは困る。

担当によって対応が異なるのは困る。

 

そりゃーその通りだ。

 

だけど、ならばその昨年の前任者の対応が本当に正しかったのか、なぜその対応が唯一絶対の尺度になってしまうのだ?そうではなくて、今、正しいと考えられる対応をその都度していくべきではないか?

 

これはあくまで、コロコロ変えるというネガティブなことではなく、改良を重ねるというポジティブ思考だ。


こうした弊害は、職員が規則やルール、前例、上司の命令などに忠実であろうとし、公平性を確保しコンプライアンスを遵守しようと公務員の鏡のような者だからこそ引き起こしやすい。

 

悪気はないだろう。しかし迷惑だ。

 

どっちに転んでも結果が変わらない細かなことは、結局、どっちでもいいのだ。

 

そんなことを議論してペーパーにまとめて右か左かの取り扱いを整理する、といったほとんど意味を感じない作業が日々延々と繰り返されているのだ。

それで働き方改革だ、時間外の削減だ、多様性を認める社会、差別、いじめのない社会、などと綺麗事ばかりが並ぶ。

 

つまり、規則やルールの手段が、それらを守ることこそが正義という目的に成り下がってしまうのである。

 

大変くどくどと書いてしまったが、もっと気楽にいきたいねー、ということに尽きる。

 

By Goro