Goro-Sakamoto’s world

坂本吾郎(Goro)が語る。自分の考えをストックし、アウトプットしていきたい。でも考え方は変わるものなので、その時々の思考が常に最新とは限らない。

相互理解不可能な相手との関わり方

●なぜそこで怒る?

 

●なぜそこにこだわる意味がある?

 

●話をすり替えて人格攻撃に転じてないか?

 

●それはただのあなたの思い込みなだけではないのか?

 

 

組織で仕事をしていると、こういう人達に出くわし、仕事が進まなくなることがある。

 

これは一般論としても、程度の差こそあれ、ある程度当てはまる事があると思う。

 

こと、今の私の職場に関しては、マックスに当てはまるから辛い。

 

その相手が、非常勤職員の中国人のおばさんだからまた厄介だ。

 

日本語は上手だが、はっきり言って、議論して細かいところを論理的に説明しても意味がない。

 

途中で必ず話がわけわからなくなる。本当に通じない。

 

言葉の問題もあるが、そもそも、責任を取る必要のないポジションであり、かつ「キレるおばちゃん」以外の何者でもなく、言いっ放しの批判ばかりを繰り返す。

 

関わると怪我するタイプの危ない人だ。

 

まさに、単に感情をぶちまけているだけ、批判しているだけ、自分の思い通りにしたいだけ、である。

 

そして、上司もこの人柄をわかっていて何の手当もせずに放置する。職員が苦情を言っても、揉め事を避けるためにこの中国人に時には迎合し、組織、チームで仕事しているんだから、と職員をなだめる始末である。

 

そして、あろうかとか、職員側に協調性がないと評価してしまう。何かの悪巧みに陥れられ、悪意ある工作にはめられた気分だ。

 

ある意味、中国人のおばちゃんの引かないしつこさ、相手をはめてでも思い込みを実現しようとする執念、喧嘩では絶対に謝らず必ず相手が悪いと確信する潔さ、全てあっぱれだ。

 

凄いとしか言いようがない。皮肉を100万%込めて、尊敬に値する。

 

だが、はっきり言って、普通の会社員がこんな人に合わせて仕事をすることは不可能と思われ、この人を尊重しなければならない状況が続けば必ず病む。

 

そして、お客さんに勝手なことを思い込みで伝え、通訳以上の越権行為を平然とやってのけ、交渉の際にも手の内が相手に渡る可能性があり、周囲の正社員の士気を下げる、いいことは1つもない。

 

スパイを雇っているようなものである。

 

危険だ。

 

ところがどっこい。中国のお客さんを相手に仕事している関係上、このおばちゃんをは必要不可欠、という謎の立ち位置にある。だから非常勤職員という立場で人事異動もせずに長年居座り、周囲の職員は異動で変わっていき、いつのまにかその中国人が一番古株という奇妙な現象になっている。

 

そして中国の相手の立場に立った考え方と発言しかせず、こちらの会社側の意見や仕事の進め方や職員の決定を軽視している。

 

さて、ここまでさんざんに愚痴を書いてきた。

 

本当に尽きない。

 

嫌いすぎる。

 

ただの発散のための見苦しい記事で申し訳ない。

 

では、こういう人とどうやって仕事上のチームとして関わっていくか、という本題だが、残念ながら、私は答えがないと思っている。

 

不可能。

 

だから、無視して、さんざんに悪態をつかせて、この人の悪行が放置できないレベルにまで達するのを待ち、一気に攻勢をかけて辞めさせる。

 

モラハラで訴えてやる。

 

それ以外に方法はない。

 

機が熟するまでの我慢だ。

 

By Goro

隙間時間の活用

今朝

 

確定申告で税務署に行くということで、1時間の有給休暇を取った。

申告書類はすでに提出していたので、納付手続きのみ、10分もかからず終了した。

 

さて、その後すぐさま出勤すると、1時間どころか15分の遅刻で済むことになる。

それで仕事をさっさと済ませても良いけども。

 

しかし私はあえてそうせず、カフェで過ごすことにした。

そしてこの記事を書いている。

 

この予期せずしてできた30分と、いつも通り出勤して残業したりした時の30分では、何かが違う気がした。

 

つまり、誰もが仕事している間の時間って、ある意味、かなり希少価値が高いと思ったのだ。

 

もちろん効率よく仕事を済ませて時間を作ることも必要だし良い心構えだ。そして家族と過ごす時間はプライスレスに違いない。

 

しかし、それと同じかそれ以上に、あえて人と違う行動をとることによって感じることのできる価値、そして、その時間に何かを生み出そうとする思考って、めちゃくちゃ大事なひと時だと思うんだ。

 

そこで何かをアウトプットしてみることはそれ自体が(自分の中で)何らかの価値を生むし、逆に何かをインプットする時間にもなり得る。

 

もちろん、ただの時間の無駄遣いと見ることもできなくはない。実際、本業はその分遅れることになるかもしれないからだ。

 

それも1つの真実ではある。

 

しかし現実世界は多面的なものだ。あなたにとっての真実は私にとっては不確かなものだし、そもそも何の関係もない。

 

会社のムダ会議、単に同席を求められたムダに長い打合せ、決める事のできない上司との相談時間、そのようなことを回避して作り上げた隙間時間の30分は、やはり、2倍も3倍も貴重だ。そこに疑いの余地はない。少なくとも私にとっては真実だ。

 

日常の中でも、たまにはあえて休んでみて、普段と違う行動を取ることから気づくものが必ずある

 

その時間に何かを考えてみることから生まれるものも必ずある。

 

それが大きなものか小さなものか、あるいは優れたものかそうでないかなどは関係ない。

 

ただ、人生という大きな長い川の流れにおいて

 

潜ってみたらこんな魚がいた

とか、

 

こんな小石が踏ん張っていたのが今まさに水量に抗えずに流された

とか、

 

葉っぱが流れてきたけど周りに木がない、どこから来たのだろうと山頂を仰ぐ

とか、

 

人生(川)で起きていることのほんの小さなことに気づくきっかけになるかもしれない。

 

それが何を意味するか、その時点で知ることができなくでも、記憶のどこかに残り、後になって思い出すこともできる。

 

日常は平坦で日々の出来事など忘れがち。

 

そのように考えることで、毎日を精一杯生きるということの1つの答え、というと大げさだが、1つのヒントになるのではないだろうか。

 

そういう思いで、この記事を書いた。

 

所要時間は15分。

 

書き始めた時の思考では、記事全体の内容を想像もできなかったが、こういう思考が自分の中にあったのか、と気づくことができた。

 

さ、今日も一日精一杯生きることにしよう。

 

By Goro

国際感覚って何だ?

 

用事で上海に行った。

 

観光目的ではないので、今回はいわゆる観光地にはほとんど行けていないので、この街に対する見方はあくまで部分的で、不完全なものではある。

 

上海はめちゃくちゃ都会だけど、一本裏通りでは雑多な生活感の溢れる人々がローカルフードを楽しんでいたりする

 

このギャップが上海の面白いところのひとつ、てか、アジア全般のこの雰囲気が私は大好き。

 

今回散策してみた南京東路は、東京でいうと銀座みたいな感じで、インターナショナルブランドのお店が軒を連ね、上海感、アジア感がほとんどない。

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いや、この発展著しいアジアの大都市に共通する洗練された街並みや人口の多さ、とかなんとかを考えると逆にアジアらしい側面と言えなくもない。だが、少なくとも、自分の描くアジア像とは少し違う。

 

旅の目的

 

さて、最近、旅する目的ってなんだろうと考えることがある。

 

知らない街を歩いて知らない人と交流し、何か自分の中の価値観のようなものが広がる感覚、こういうものは旅の大事な部分であると常々思っている。

 

見たことがない人よりも見たことある人の方が視野が広がる。住んだことのある人ならなおさらだ。

 

言うまでもなく、日本は島国。

 

日本人は小さな頃から全員が右に行けば右に行くことが良いこと、であるかのような教育を受けてきた。

 

そのような純粋培養の日本人が、仕事でちょっと海外に出張に行くようになったからといって、「国際感覚」が身につくと考えるのは間違いだろう。ただ海外旅行慣れしているにすぎない。住んだことのある人には及ばない。

 

国際感覚とは何か

 

明確な定義は存在しないのだと思うが、ネットの辞書によると、

 

国外のさまざまな文化や価値観を知り、自国内に限った観点ではなく国際的な観点からものを考えることのできる感覚。自国の常識に囚われず、より広い価値観や考え方で物事を捉えるセンス。

 

とされており、引き続き抽象的だが概ねこの通りなのだろうなと思う。

 

旅をしただけで知ってしまっているかのように勘違いをして、自分は国際派の人材だ、とか、国際感覚を持っている、というような人がいはしないか?

 

そういう人は、まだ外から日本を見たことにはならない。

 

どうしても出張では気づけない部分、すなわち、仕事から自宅に帰った後の飯作り、食材の調達、休日に何をしようかと考える時間、ローカルコミュニティと交流する機会、ローカルスタッフとの会話、挙げればきりがないが、こういう時間の連続性から生まれる微妙な感覚が海外生活にはある。

 

最近出張するようになった程度の人間には、このような感覚が存在することにさえ気付くことができないのである。

 

そしてあくまで日本式の考え方で仕事を進める。

 

海外の客と取引をやると、なぜ言ったことをやらないのか、とか、なぜ質問しているのに回答してくれないのか、とか、なぜ何も決まっていないのに放置するのか、とか、なぜ中国を日本より重視するのか、とか、日本人には理解の及ばない非常にもどかしいことが起こる。

 

そこを日本式でカバーしようと(部下にカバーさせようと)するから無理が生じる。

 

そもそもいわゆる国際感覚がない人は、ちょっと誤った形で日本が世界一素晴らしい国だと本気で思っている。中国よりも優れていると思っていて、東南アジア諸国を下に見ている。

 

もちろん、日本が美しい国であることは否定しないし、その通りである。

しかし、いろんな行けてないところがあるのも事実で、日本方式は世界の中ではかなりの得意な部類に入るだろう。

 

海外に駐在する人たちの間ではこういう言葉が存在するらしい。

 

OKY

OKO

 

お前がこっち来てやってみろ

お前もここにおったやろ

 

この言葉、自分も海外駐在の経験があるのでよくわかる。

 

と同時に、一度でも外から日本を見た経験のある人間からすると、日本の組織で細かいどうでもいいことをうだうだと言って一向に進まないことなどを見ているとげんなりする。

 

そして、会社として海外に人材を出し、戻ってきたときの経験に基づく価値観を大切にしようとしない風土にはげんなりする。むしろ反逆児のように潰されるはめになる。

 

日本のこういう部分は、はっきり言って終わっている。

 

日本に今後の劇的な発展はあり得ない。沈没していく国であることを認識した上で、そうならないように1つ1つの組織が、変わっていかなければならない。

 

外からの眼を持つ人間を排除するような組織に未来はない。

 

By Goro

誰も読まないブログに価値はあるか

ちょっと前にブログを始め、毎日とは言わないまでも、週に2〜3記事程度は書こうと努めてはいるが、どうしても時間が取れず、あるいは書く内容が定まらなくて更新できない日もある。

 

当然、更新頻度が減れば、アクセスの数やそのチャンスは減ることになるだろう。

 

そもそも、更新したからと言ってハテナブログのホームで、どこかに「新着」とかって出てないかもしれないので(出てるの?)、機会損失の恐れは全くないのかもしれない。

 

そこは初心者なのでよくわからない。誰か色々と教えて欲しい。

 

問題は、誰も読まないブログをいつまでも書き続けることに価値があるのか、という事。

 

私の見解は「価値がある」である。

 

アフィリエイトやってる人からすると、アクセスがない=お金にならない=価値がない、という結論だろう。

 

しかし、そもそも「あなたも稼げます」という情報商材には価値がないという事は別の記事でも指摘した通り。そんな記事なら書いても書かなくても価値はない。

 

むしろ、稼げますという誘惑に駆られてお金を払ってしまう人が生まれる恐れがあると言う点で価値はマイナスですらあるだろう。

 

それはそれとして、ではなぜ毎日ブログを綴る事に価値があるのか。

 

自分の中の考えを文字にしてアウトプットするという事は、考え方を整理する作業に他ならない。

 

考えの中に抜け漏れがあれば調べて補強することができる。

 

また、ぼやっと感じていた事などをぎゅっと集めてクリアにできる。虫眼鏡で光を集めるようなイメージに近いかも。

 

もちろん、常に読者が沢山いる状態であれば、書くことのモチベーションになり、コメントなんかももらえれば双方向のコミュニケーションが生まれて、さらにやる気が増すだろう。

 

いずれは多くのアクセスがあるようなブログに育てたいとは思いつつも、今は、下積みの時だ。

 

このブログは生まれたばかり、今は、基盤となるブログの方向性自分のスタイルなどを固めていくステージだ。

 

だが、アクセス数云々よりも、書くことに価値を見出し、日々アウトプットの練習をする事、そして、いろんな記事のネタを探す癖をつけること、こういうことを積み重ねていけば、自分の中に蓄積される情報量は侮れないはず。

 

だから今日も、誰も読まないブログを書き続けよう。

 

ちなみに、今回の記事はバス停でバスを待つ間の10分の間に、一筆書きで綴ったものだ。

 

まずはいいことを書こうとするよりも、思いついたことをメモする感覚で綴っていくと、時にはいい記事が書けるようになるかもしれない。

 

それまでの辛抱だ。

 

By Goro

 

 

シンプルなことを難しく考える人

シンプルなことを複雑化する上司ってなんやねん、という話。

 

組織マネジメントの観点からは、マネージャー職にならないと見えない景色はあるのだろう。

 

その分、判断のポイントがヒラ社員とは少し異なるのかもしれない。

 

責任は所属長が取らないといけないので、一定の慎重な判断は当然あるだろう。

 

そんな事情があるにせよ、何かを判断するにあたり、なんでも小難しく「整理が必要」と言って話をストップさせ、①背景、②事実関係、③論点、④結論、みたいな話を、紙に書かないと決断が下せない奴ってなんやねん。

 

例えば、社内の通訳ができる人材に対して、通訳依頼があった時、上述の整理整頓をしないと決められないことなのか、ということ。

 

いける?

いけます。

じゃあお願いね!

 

で済むのではないのか?

 

すまないの?

 

私にはわからない。

なぜこのスピード判断ができないのか。

 

もちろん、所属の業務の進捗とか総合的に判断しないといけない点は考慮したとしても、担当だって馬鹿ではない。

 

自分が行けるかどうかについては、自分の業務が滞ることによって組織に大きな影響がありうるかどうか、を踏まえた上での「行けます(またはいけません)」に他ならない訳で、この時点で部下を信頼していないということの裏返しでしかないのではないか?

 

いろんな種類のダメ上司がいる。

 

例えば、

これで社内の会計規則上問題はない?そもそも、普通はこうした方がいいんじゃない?

 

と聞かれ

規則の観点からは問題ありません。普通の処理がどうかよりも、考え方を訂正する必要があるかどうかという論点であれば、私はこの考え方で正しいと考えています。

と答える。

 

すると、

本当に問題ない?普通のやり方にすべきじゃないの?

 

とくるので、

普通かどうかは関係ないです。問題があるのであればどこに問題あるのか、という点で議論すべきだと思いますが。

 

と返す。すると、

誰々さんにも、聞いてみるので待ってて。

 

と言われて、はいはいと思って待った結果、誰誰さんも、同じように問題はないという意見。

 

それで納得する上司。

 

つまり、信用されていない訳だ。そもそも普通ってなんだよ。

 

こんなことを、つまり、信用していないですよ、ということをあからさまに表明するようなやり取りを部下に直接言う上司って一体なんなの?

 

聞く人によって意見をコロコロ変える上司っていらなくないか、という話なんです。

 

 

こういう人の仕事は、間違いのない処理で自分を守ることだけに関心があり、展開の早い社会の中で、価値を生み出さないばかりか、その組織の存在意義をさえも危うくさせる仕事の仕方に他ならないのではないか、ということなんです。

 

そもそも、こんなの仕事じゃないし。

 

もう少し部下との対話や仕事の流れ、進め方等を尊重してくれる、シンプルな上司って世の中にはいないのかしら。

 

こんなに決められない、部下を信用しない上司を持った場合にどうやって「よい部下」を演じることができるのか、誰がわかる人教えてくださいな。

 

By Goro

どうせやるなら楽しいことをやろう

40手前。

 

結婚式で張り切って余興をやる情熱は薄れてきた歳頃だ。

 

会社の同期が結婚する。

 

結婚式の頻度も減ってきて、みんなの余興に割く情熱と時間配分は減少気味だと感じる

 

それでもやってほしいと思う新郎本人と

 

やらなきゃと思う同期たち

 

ではあるものの、ほとんど誰もが受け身状態

 

だれかが決めてくれるのを待っている。

 

決まったことに対しては協力するけど、という構図。

 

だから、アイデアを出して、役割分担を促すリーダー的役割がとても大切。

 

その人が日頃からリーダー的な人と思われているかどうかは関係ない。

 

イデアを出さない集団は、アイデアを出す人間に対して何も意見がないのである。

 

人が決めてくれたら自分はあまり動かなくて済む、と思っているからだ。

 

たまに決まったことに文句を言う奴もいるけど、発言の機会が与えられたのに発言しなかったのであれば、そいつのことは無視していい。

 

また発案者は、アイデアを出したから全部やらなきゃ、ということもない。

 

誰々さん、あれやって、これやって、と言いやすい立場に立てる。

 

そして、自分の意見を言わなければ、DA PUMPのUSAを踊らされる羽目になる。

 

それが嫌なら、自分で好きなことを提案して実現させる方が楽しめるということだ。

 

多かれ少なかれ、仕事でも同じ。

 

どうせやるなら、楽しいと思えることをやろう。

 

と、ここまで書いてきて、そもそも論にたどり着いた。

 

やるかやらされるか、といった議論ではなく、そもそも、新郎の友人として、彼が喜ぶような内容の余興をしっかり見せてあげること、そのためにみんなが1つになって準備をしてあげること、そこが一番大事。

 

やると決めた以上は、できる限りの最高のものを作ろう。

価値を生まないネットビジネス

ツイッターのメッセージにこんなんが来ました。

 

————引用————

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—————ここまで———————

 

こんな胡散臭いのに興味を引く人間がいるの?

 

まず、なぜ勧誘するのか、という疑問がある。

 

なぜ、自分が稼いでいるのに他人に進める必要があるのか、問題はそこだ。

 

ふつうに考えると、自分で勝手に稼いでおけばいいものを、他人を稼がせたいという理由が全く見当もつかない。

 

でも実は、その理由は単純。

 

つまり、稼ぎたいと思う人が多いから。

 

稼ぎたい人に対して、稼ぐノウハウを売る。

 

結果何が起こるか。

 

何も生み出さない。

 

簡単に言うと、稼ぎたい人に対して稼ぎ方を伝授し、その伝授された人が、さらに他人に対して稼ぎ方のノウハウを売る、という仕組み。

 

結果として儲かるのは上層部だけであって、末端の人は、稼ぎたいと思っている人を誘導するために「稼げます」と言っているに過ぎず、実際は間違いなく稼いでいない。

 

もちろん、中には、本当に稼いでいる人もいるかもしれないが、少なくとも、ほとんどの参入者はこの段階でグルグルしているだけ。

 

そのビジネスから何の価値も生み出していない。

 

例えるならばこう言うこと。

 

●「2000円が簡単に稼げます」というタイトルの本を書き、1000円で売る。

 

●この本を買ったらその知識で2000円稼げるよ、だから1000円の先行投資で2000円儲かるんだから、買わない奴はアホ、とSNSで一生懸命PRする。

 

●え、絶対儲かるやん、と考えて本を買う人が10人いたので著者は10000円儲ける。

 

●本に書いてあったことは、「2000円儲かるよ」という本の書き方と、SNSで紹介しまくろうという話。

 

●本を買った10人のうち3人が行動し、2000円稼げますという本を再生産。

 

●彼らのSNSでまた本をPR

 

●残りの7人は、このビジネスに共感出来ず途中でドロップアウト。騙されたという気持ちが残る。

 

以下、ぐるぐる回り、最後は誰もいなくなる。

 

つまり簡単に言うと、「稼ぐ方法」を宣伝して稼ぐ、ということ。

 

ね、何の価値も生み出していないでしょう。

 

この方法で今儲けている人は、たまたま情報弱者が引っかかってくれただけ。今一生懸命SNSで勧誘している人は、全く儲けてない人で、さらに信用をなくし続けている人たち。

 

絶対稼げなくなる。

 

 

そんなビジネスからは何の価値も生まれないし、信用も得られないからね。

 

皆さまも気をつけて。

もし間違っていたら教えてくださいな。

 

By Goro