Goro-Sakamoto’s world

坂本吾郎(Goro)が語る。自分の考えをストックし、アウトプットしていきたい。でも考え方は変わるものなので、その時々の思考が常に最新とは限らない。

社説読み比べから民主主義を考える

毎日、各新聞社の社説を斜め読みしています。

 

世の中のトピックス的な所と、論点みたいなものがシンプルに入ってくるので、意見に賛成か反対かは別として、物事に対する自分の考えの軸を作る上で有益なんです。

 

もちろん、断片的な情報に過ぎないので、情報収集のツールとしては全然足りないけども。。。

 

時々、各社の社説が「世論」であるかのような顔をして、奇妙な論理展開をすることがあるようにも感じます。

 

例えばBrexitと沖縄の基地問題

 

国民投票と県民投票

 

問題の質は色々異なるが、民主主義とか世論を含めた政治のあり方、という観点で考えると、共通点も色々あるのではないでしょうか。

 

今朝(2018年2月28日)の朝日新聞の社説ではBrexitに関してこう説いています。

 

再度の国民投票を含め、国民が納得する道は何か。欧州と世界にとって最善の策は何か。英国政界は全員で立ち止まり考えてほしい。

https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S13912763.html?iref=editorial_backnumber

 

他方で、2018年2月26日の社説での、沖縄の基地問題に係る県民投票についてはこうです。

 

日米合意や安全保障上の必要性を強調し、明白な民意を無視し続ける姿勢は、日本の民主主義を危機に陥れている。

(中略)

 政権は速やかに工事を止め、県や米政府と協議に入るべきである。県民投票の結果を、転換の礎としなければならない。

https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S13909547.html?iref=editorial_backnumber

 

いかがでしょうか。

 

一方では国民投票を再度実施することを良しとし、一方では県民投票の結果が民意の全て、のような言い方をしています。

 

私の目には、ダブルスタンダードに映りますし、政権批判のための論理展開であると言う見方もできように思えるのです。

 

民主主義に則った政治手続きとして選ばれたのが国民投票や県民投票であったわけで、手続き論的には一票でも勝てばそれが判断となります。

 

その意味で、極端な話、一票差だからやり直し、大差なら問題ない、というのは民主主義を尊重した議論ではないのではないか、という気がするのです。

 

「民主主義」を金科玉条のように主張するのならば、Brexit国民投票結果も含め、国民を代表した議会の全ての決定、ヒトラーの出現、それら全てが民主主義の結果ということを認めなければなりません。

 

そして同時に、国民が常に利口な判断ができるとは限らないという欠陥のある政治システムだということも認めなければならないでのではないか、と思うのであります。

 

もちろん、この記事(このblog)も社説の一部分を切り取った断片的な批判に過ぎない、という評価も可能でしょうから、そこは読者のみなさま自身で読み比べていただき、各自で判断すれば良いということです。

 

いずれにしても、まずは情報に触れて自分の意見を持つことが民主主義の第一歩なのでしょう。

 

By Goro

第2回米朝首脳会談を機に考える

これは約4年前、安保法制を巡って国が割れていた時の回想記事である。

 

私「先輩、抑止力とは何ですか?核を一発うてばもう終わりでしょう。ならば核兵器5発持つのも1000発持つのも同じでは?たくさん持つことに何の意味があるというのでしょうか。」


先輩「抑止力とは、一発でも撃ってみろ、報復として敵の戦力を徹底的に壊滅する武力を我々は持っているぞ。そしてそれらかがどこにあるかはわからないだろうから、我々の戦力を無能力化することはできない。だからそちらからは先に撃つことはできないんだぞ、という状況を作ることです。だから、核兵器をたくさん、そしてどこにあるかわからないようにして持つことには一定の合理性がある。国際政治は理想だけでは回らないのです。」


私「しかし先輩、私は、みんな持たなければいいのにと思うのです。世の中に、戦争を望み、まさか核兵器を本当に使おうという人がいるとは思えません。あるいは、指導者が狂っていて、もう死んでもいいって思ったら、ボタン一つ押すくらいどーってことないというものなのでしょうか?実際に核兵器を使えば世の中終わりだということは皆知っている。それなのに、軍縮だ、抑止力だ、と真剣に世界が議論している。なんだかそれって滑稽ではないですかね。シンプルに、わかっているならやめようよと。いくら国際政治が経済、安全保障と複雑な思惑が絡まり合っているとしても、至ってシンプルに考えるべきではないですか?これは弱者は侵略されるというリアリティを無視した議論でしょうか?」


先輩「そうですね。」


私「しかし先輩、我々国民の関心は、今日明日のご飯、家族と未来の子供たちの幸せです。政治の役割は、そのために何をすべきかということなんですよ。その考え方に立てば、隣国との関係悪化を煽ったり、マスコミが国民を扇動したりというのがどうも理解できない。例えば集団的自衛権とか、どの国にも認められているものを、戦争したがっているだとか徴兵制になるだとか不安を煽ってミスリードする。そして海外メディアは軍国主義の亡霊が復活しただとか言うんです。私からしたら意味不明です。リテラシーのない人はこういう情報で本当に日本に対してネガティブな印象を持ってしまうんですよ。官邸前のデモに参加してた人がテレビでこんなことを言っていたんです。『詳しくはよくわかんないんですけど、戦争に向かっていくのは嫌だなって思って、子どもたちを守るために参加しました。』って。こういう人たちが世論だとか民主主義とか、そういうのはおかしいでしょう、という話なんです。もちろん、間違いなくその発言者の考えは正しいと思いますよ。子供の幸せを願う気持ちを誰も否定できるはずがない。でもずれていると感じるんです。まず、詳しく分かるまで勉強してこいと、その上で、感情だけで右や左と一斉に動くあなたたちの方が極めて危ない考え方なのではないか、という感じがするんです。」

 

先輩「集団的自衛権がそれほど嫌なら、永世中立国になればいいという話です。我が国の領空を通過するなら、無条件に自国の武力でもって撃ち落とすと宣言するということに等しく、常に武装しておく必要があります。安保法制どころではなく、物凄く強烈なメッセージを持っているんですよ。ただし、自衛以外は戦争ができないのは日本と同じです。つまり、自国だけで国民の生命、財産を守るということは、それくらいの覚悟がいるということです。当然莫大な予算も必要になるでしょう。しかし、それを日本国民は望むのでしょうか?自国だけで抑止力を維持するには核武装という選択肢を検討するということも許容できるのですか?官邸前のデモの参加者が本当に純粋な日本人かどうかは知りませんが、しかしそもそも、日本だけが平和主義をうたっているわけではなく、どこの国も侵略を正当化するような憲法などもっているはずがない。コーランだって、イスラム原理主義者の過激な行いを正当化するような経典ではないのです。」

(回想ここまで)

 

 

あれから四年近くが経ち、当時は予想すらできなかった米朝首脳が会談をしている。

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ハノイで具体的な進展があるのか、日本への影響はどうなるのか、国際政治の動向はなかなか我々国民の身近な問題として感じにくいが、やはり国だけでなく、国民みんなが理解を深めて未来に向けて考えていくべき問題だ、と思うのであります。

 

By Goro

残念な上司

接待で飲み会の時、店選び、予約からお酒の注文、お金の精算まで、下っ端の仕事だ。

 

そんな時、ああどうせ課長は酔っ払って調子こいていいことばかり先方に言って、後からさらに仕事が増えることになるのにめんどくさー、と思う気持ちも分かる。

 

しかし同時に、この人達が楽しく飲める場を提供できたとすれば、なかなか見えないところではあるが、ちゃんとやるべき仕事をやっているということであり、できのいい上司ならばきちんとそこも見ているはずだ。

 

彼に任せておけば物事がうまくいく、と。

 

見ていないならばそんな上司は見捨ててしまえばいい。

 

今回は、そういうところが出来ていないマネージャー職の人は多いよね、という話。

 

ある時、会食の主人である課長が、接待の相手方に対してこんなことを言った。

 

担当の坂本(部下の名前)がいつも粗相してないですか?

 

もちろん冗談交じりにではある。

 

しかし、部下を弄って笑いを取ろうとするのは、なんとも卑劣なやり方ではないか?

 

それとも笑いだと受け止められない部下が悪いのか?

 

もちろん、部下の立場として、その場では笑って答えるが、やっぱりこんなに些細なことでも上司に対する見方が変わってくる発言であるというものではないか。

 

気にしない人は気にせずに、上手く合わせて笑っておけばいい。

 

しかし、私ならそんなことできないし、こういうことを続けなければならない人生はごめんだ。

 

そもそも前提として、相手にへこへこいいことばかりを言ってたからといって何も生まれないし、信用を落とす行為ではないのか。。

 

だから部下はこういう時、必ずドライな目で見ている。

 

お客さんであっても、何でもかんでもへこへこする必要はないし、要望に全て応える必要はない、こんなにショートノーティスで物事を依頼してくるのはむしろ非礼に値する、なぜに言うべきことを毅然と言わないのか、言わないことが不誠実という考え方もできるのではないか、と。

 

その上司はこう続ける。

 

この歳でこのポジション(マネージャー職)に就くと守りに入ってしまうんだよねー。

 

だそうだ。

もう、見捨ててしまえばいいと思う。

 

一番聞きたくない発言だ。

 

知ったことか、以外に言葉が見当たらない。

 

若者は、守りに入った上司には1ミリの魅力も感じないし、そんな背中を見せておいて、その組織で偉くなりたいなどとは思わないだろう。

 

だから優秀な人材が組織を去っていくのである。

 

上司たるもの、常に部下を守り、言うべきことは言う、是々非々の姿勢と強い姿を見せて欲しい。それによって部下は思いっきり能力を発揮して仕事ができるし、モチベーションを上げることになり、結果、組織のパフォーマンスを高めることに繋がっていくのである。

 

部下の立場では、こういう些細なところにマネージャーとしての資質が散りばめられているということを見逃してはならないし、上司になった場合には、こういう些細な点を軽視してはならない。

 

By Goro

報告書作成のコツ

議事録の作成は大切だ。

 

トップ同士の会談、外部も含めた会議、その形式は取り敢えず傍に置きつつも、記録の作成がうまくできる人とそうでない人は、結構分かれるところ。

 

何をもって上手いか下手か、については色んなポイントがあると思うが、まあシンプルに

 

●わかりやすさ

●正確さ

 

この2つであろう。

 

ちなみに、拙者は英語が下手にもかかわらず英語の会議に出て概要の報告書を作ったり、外国の相手との交渉や調整ごとを任されたりして、その結果を上司や同僚に文書で報告するというような業務は過去に多く経験してきた。

 

そんな中で、もちろん完璧ではないにせよ、失敗も重ねながら、当時の同僚や上司の作り方などを真似し、上手い表現方法を盗み、それなりに上達させてきたという自負はある。

 

今の職場でも、それなりに要点をまとめて次に繋がる報告書や記録を作成している同僚もおり、そこは心強い。

 

拙者も負けじと、顧客との面会、会議、情報収集の相手方などと次に繋げていく必要がある話をした場合には、要点のみをさっとWordで作り、次の対応案などの所感を含めて報告する。

 

トップ同士の会談などでは、極力省略せずに、発言の要旨を過不足なく正確に書く。

 

ただ、ここではverbatim(一言一句言葉通り)である必要はない。

 

繰り返しになるが、過不足なく、正確に、わかりやすく伝えられればよいのだ。

 

そうすれば次のアクションを誤ることは無いだろう。

 

ある日、とある無能な上司が、トップ同士の会談の記録を書いて、修正の必要がないかどうか確認を求めてきた。

 

ここまでは良い。必要なプロセスだ。褒めてやろう。無能な割にはよくできた。

 

しかし、直後に無能な上司の無能ぶりが露見した。極めて遺憾だ。

 

まさに言っていないことを言ったかのように書いていたのである。これはありえない。

 

例えば、

「対応する用意がある」

 

という発言を

「予算措置も含めて対応済みだ」

 

と書いているが、意味が違う。

 

さらには、

「双方で代表者を決め、プロジェクトチームを結成して進めていくというやり方も一案」

 

という発言を

「既にこちらはプロジェクトチームを立ち上げたので、一緒に頑張っていく所存」

 

と書いている。

もう、センスがないというか、事実を曲げるなという話である。次のアクションに係る判断を誤らせる極めて危ない行為であると言わざるをえない。

 

このようなことがあると、後日、言った言わないの無用な議論に繋がっていくのである。

 

記録を取る時はメモを意識しすぎず、話の流れに集中して要点を頭に入れる。すると後からスラスラと思い出しながら書けるし、わかりやすい報告書になる。

 

英語で仕事していた当時の先輩からの助言だ。

 

私はこの時の先輩の教えを今でも大切にしている。

 

By Goro

ダメ上司

愚痴に近いかも。

 

こんな上司は無能だ、という話。

 

ある時、イベントを執り行う事になった。

 

通常のデスクワークとは少し異なり、外部との調整やプロトコールの確認、シナリオの作成など、イベント慣れしていない人にとっては、何から手をつけようか、と迷う気持ちはわからないでもない。

 

とはいえ、やることは単純明快。

 

●会場の設営業者と委託契約をし、当日の流れを調整していく。

 

●同時に参列者への招待状を発出し、代表者の挨拶の内容、進行要領などを詰める。

 

●そして人の貼り付けを考える。

 

まー裏方として、細かい作業は色々とあるが、時間さえ十分に取れれば、何ら難しい作業はない。

 

ところがだ。

 

その無能な上司ときたら、担当の私を差し置いて、別の係の担当者達に対して、このようにのたまったのだ。

 

「我々にはこのイベントの経験がない。よってわからないことだらけなので、準備段階から色々と教えて助けて欲しい」

 

 

 

え?!

 

担当者は誰?

 

私は信じられてないの?

 

私は全く信頼されてない?

 

我々って?勝手にあなたと同じカテゴライズをしないでいただけないかしら?

 

となりますよね?

 

勝手な発言で自分まで無能だと思われてしまうという、巻き込み事故

 

その後、その上司はこのイベントの準備にほとんど関与せずに当日を迎え、ロジのアレンジが頭に入っていない事により、現場でテンパって担当の私に色々と聞いてくる。

 

あれはどうなっている?

 

我々の乗る車はどれだ?

 

誰に連絡すればいい?

 

電話番号は?

 

まさに迷惑以外の何者でもない。全部ロジ資料に書いている事だ。正直に私はこう答えた。

 

「全部紙に書いてます」

 

しかし、その上司の言い分はこうだ。

 

「紙では読んでもらえないから直接説明すべき」

 

知らんがな。

 

読め。

 

その上、事前の打ち合わせもしたし、紙配ってるから、まずは見ろ。その上で不明な点は事前に聞け。

 

その前に、経験がないと言い訳をして、見て見ぬ振りをしたまま準備を放置して丸投げしていたのは誰だよ。

 

これは、自分には知見がない、経験がないと予防線を張り、失敗した時のダメージを最小限にしようとする心理に他ならない。

 

そして、これが一番信用を失う態度で、社会人として対人関係を築くにあたってのリスクが高い。

 

ところが、こんな上司であっても、人事評価の権限を持っている。そして私のことをこのように評価する。

 

独善的になりやすく、チームワークを乱すことがある。

 

うるさい。

 

無能に言われたくない。

 

そして彼はこうアドバイスをくれた。

 

「一見無駄と思える事であっても、きちんとチームとして意思疎通ができるように努力してほしい」

 

うるさいと。

 

もう、無能を棚に上げた評価という他に評価のしようがない。お前が頼りないからこっちで進めてるのだから、いくらなんでもこの評価はない。

 

だが、部下である限りは、この評価が人事に影響する。

 

こんな事にいつまで耐えて生きていくというのか。なぜ無能なおじさんに従わなければならないのか。

 

決断の時は近い。

 

By Goro

何のために働くのか

仕事をする目的は何か?


間違いなく10代の時の悩みの種。いやむしろ、社会に出て3年以内のテーマかもしれない。 


働かずに遊んで自由に生きていきたい。だから社長になる、不労所得最高!みたいな気持ちもわかる。高校生の時はテストの点数を取る勉強しかしていない。少なくとも自分には大学に行くことが目的であって、社会に出るという意識はなかった。


さて、仕事は何のためにやるのか。

 

お金のため?
自己実現のため?
お客様のため?


お金を報酬として与えることには、ある場面では有効な動機付けになるが、ある場面では有効ではない、ということがあるらしい。


成功報酬型の動機付けが有効となる場合はルールや目的が明確な時、つまり、早く山頂に着いたら100万円!というケース。

 

そういえば、アフィリエイトはこちらだね。


でも、組織に雇われて仕事をする時、答えのないことばかり。誰がやっても同じ答えになるものは仕事じゃなく、作業だ。

 

だが、自分の考えだけでは何も実現できない。必ず上司や別の同僚が違う事を言う。


そして、答えがないことを日々こなしていく中で、我々は上の意見に縛られて牙を抜かれ、仕事が作業に成り下がっていくのを日々目の当たりにしながら、時間に拘束されて同じ基準で給料をもらっている。職種によってはほとんどアルバイトと変わらない、場合もある。


そこにやりがいがあるのか、と言う問題。
何を動機とするのか。 


貢献?

 

誰に対する?


クリエイティビティ?

 

自己満の?

 

もちろん、ここでいう貢献とは、組織をうまく回すための貢献ではない。課題を解決して、お客様からありがとうと言ってもらえるとような価値のある仕事のことだ。


全ての仕事が無条件に人の役に立っているとは、良心に照らしても、全く思えない。むしろ、無駄な会議に時間を浪費して、無駄な人件費が必要となる事で不利益を与えている部分があるのかもしれない。


ある時、職場の同僚が、退職して某有名コンサルファームに転職した。もちろん超優秀な人で尊敬に値する。 


彼は次のように言っていた。  


退職に当たって、これまでお世話になった数々の人たちと話をしてきた。その中で気付いたことは、人には3つのパターンがあるということ。  


1つ目は、コンプレイントを言って何も動かない人。 

 

評論家、もしくはただの負け犬か。


2つ目は、コンプレイントも含めて受け入れ、その中で最大限のパフォーマンスを発揮しようとする人。 

 

前向きに見えるが、心だの奥には葛藤を抱えているのではないか。そこで生きていく事を割りきり、そのために偉くなる。そして、部下である限りは、自分の良心に照らして食い違いがあっても、自分を殺して食らいつく能力に長けている。


3つ目は、コンプレイントを言うくらいなら自ら環境を変える人。 


「例えば売上を上げることができたとか、直接的に成果を感じたい、しかし今の職場ではそれができない。」 


「だから前向きに環境を自ら変えたい、オポチュニティがあるのであれば自ら挑戦し、自分の人生は自分で決めることにした。 」


言うまでもなく、彼は自らを3つ目の考え方で縛り、体現しようとしていたということだ。


そして彼は、当時の決断を決して後悔することなく、自ら決め、その先に広がる人生の選択肢を手に入れているに違いない。

 

没個性をよしとする日本の文化。少なくとも義務教育では同じ型を量産するシステム。

 

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この洗脳教育から脱するには、3番目の人生を勝ち取る他に道はない。

 

By Goro

 

話が通じない同僚、上司との関わり方

組織に雇われて仕事をするということは、自分の意見が通らないこともあるということ。

 

組織としては、その組織のミッションが最大になるような意思決定を下していく必要があり、そこで雇われた人間は、一度下された決定に従って仕事を進めていく必要がある。

 

だが、その意思決定とは、どこか遠くの空の上で自動的になされるものではなく、必ずプロセスがあるはずだ。

 

ビジネスにおいては結果が大事。プロセスは一定の範囲においては関係ないのかもしれない。

 

だがしかし、こと、人間関係においてはプロセスは大切。意見を言う勇気、意見を聞く耳、これらは大切。そして、議論をすることは奨励されるべきだ。

 

ところが、意見を封じ込める上司や同僚がいたらどうだろう。また、一度決めた事を誰かが言い出した事で簡単に迎合して意見を変える無能な上司がいたらどうか。

 

部下である限り、こういう奴らにモチベーションを削がれ、それによって成長のスピードが妨げられるリスクを常に負っているのではないか。

 

だからやりたいことがやりたいならば偉くなれ。しかし、迎合した奴が偉くなるというパラドックスに気付いている奴はどれほどいるだろうか。

 

その問題意識を持っているのに引き続き迎合する奴らの多いこと。

 

柔軟なことと迎合することは、その思考プロセスにおいて全く意味が違う。

 

その意味で、柔軟であることはプロセスを大切にした判断であり、迎合することはプロセスをすっ飛ばした他力の判断であるということだ。

 

だから、やっぱりプロセスは大切という結論。

 

仕事が楽しくない時、必ず奴がそばにいる。

 

そこのお前だ。おっさん。これ読んでドキッとしたらあなたは無能だ。

 

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上司が右と言うたらなんでも右と譲らない無能な人。全体を考えずに部分最適だけを主張する人。思いつきのくせにそれが最善であるかなように主張して譲らない人。

 

こんな人たちの意見を集約して同じ方向を向いていく仕事、それが雇われる人間の宿命なのだ。

 

ならばさっさと辞めて、自分がボスになるという選択肢を常に持っておくことも、より良い判断をするためのプロセスに対する態度を決める要素ともなるのだ。

 

だから、常に選択肢を複数持っている奴がめっちゃ強い。

 

迎合する事で評価される組織、また、それで偉くなろうとしている無能な人たちの市場価値はそこでストップしているし、組織としての成長は見込めない。

 

そしてこのような人たちは、その組織でしか生きられないということ。だから、定年でアウト。危機感を持たなければいけない。

 

AIの時代、人生100年時代を迎え、その思考はリスクでしかない。

 

By Goro