Goro-Sakamoto’s world

坂本吾郎(Goro)が語る。自分の考えをストックし、アウトプットしていきたい。でも考え方は変わるものなので、その時々の思考が常に最新とは限らない。

神は存在するのか

先日から、高齢者の暴走運転や不注意の事故の巻き添えにより、無垢の命が奪われるという痛ましい事故が相次いだ。

 

子供の命が奪われるという時、親の心どのように引きちぎられるのか、それはもう想像を絶する怒りと悲しみに、この世が地獄に感じられるに違いない。何もかもがどうでもよくなってしまうかもしれない。何故なら、全てに優先される存在が不意にいなくなってしまうのだから。

 

だが、これは第三者の憶測に過ぎないのかもしれない。もしかしたら、その他の前向きな感情を残して、事故撲滅ムーブメントを巻き起こすなど、何らかの使命感に駆られるという場合もあるかもしれない。いずれにしても、一概にも言えないし、想像の域を出ることもないが、とにかく辛くて悲しくてしんどくて、どん底に叩き落されるという部分は間違いないだろう。

 

よくこんな言葉を聞く。

 

 

神は、乗り越えられない試練を与えはしない。

 

 

実に前向きでいい言葉だ。

 

何かにチャランジする時、壁に当たった時、批判された時など、こういう言葉を糧にして実際に乗り越えて行こうとする人は多いだろう。そしてこの言葉の価値を再確認するのだ。

 

 

だが、この言葉を信じて行動することと、実際に神がいるかどうかというのは別の話。

 

もし神が存在するのなら、神は何のために存在するのか?一個人のいく先に壁を設定し、乗り越えられるかどうかを試し、成長を後押しするための存在なのか?

 

ならば、事故で亡くなった子供に対して、「この車を避けられるか」という無慈悲な試練を与え、避けられなかったために死を宣告する、それが神の仕事であり、その子は神の意思にそぐわなかったでもいうのか。

 

もしくは、母親や父親に対して「我が子の死に耐えられるか」という試練を与え、乗り越えさせようとする。その試練は子供の死という犠牲を伴うわけである。そもそも、このような試練を乗り越えるということはできないだろう。せいぜい、時間が経って死を受け入れる、というところまでで、生きている限りは乗り越えられることもないように思えるし、仮に乗り越えたとしても、その先に親として人間として成長したところで、一体何になるのか。

 

これが神なのか?

 

 

もしこういう抗えない意思が働いているとした場合には、それは神ではなくて悪魔なのではないか。

 

神ならば、何故、無実の命を犠牲にするのだ。

 

世の中全体を最適に保つにはその犠牲が必要だから、神はあえてその犠牲を人に強いるとでも言うのか。

 

あるいは、世の中という人の社会だけではなく、地球環境のためなのか、はたまた宇宙全体のレベルでそうなのか。

 

 

そんなのは嘘だ。

世の中の出来事全てに意味がある?

嘘だ嘘だ。

 

どこをどう考えてみても、ほかに悪害をもたらす政治的指導者や環境を破壊する大きな組織や国家、優先すべきことはほかにたくさんありそうだ。

 

 

神は存在するのか?

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神は、人々の生活を豊かにし、人生に意味を与える存在であり、知的な人格を伴うような存在ではないであろうことは皆さんも承知の通りだろうけど、そういう超越的な存在を意識してこのような出来事を考えると、神はいないか、神は人を幸せにすることはない、という結論になりそうだ。

 

世界の紛争地域では、神をめぐる宗教的な争いのために家族が命を落とすという場面が日常的にあるのだとすれば、やはり、神はいないか

人を幸せにはしない、あるいは人を不幸にする存在、という結論が妥当な気がする。

 

 

もちろん、宗教とか人の信仰を否定するものでは全くないので、念のため。。

 

By Goro