Goro-Sakamoto’s world

坂本吾郎(Goro)が語る。自分の考えをストックし、アウトプットしていきたい。でも考え方は変わるものなので、その時々の思考が常に最新とは限らない。

飲みニケーションの功罪

飲みニケーションって何?

 

いわゆる飲みニケーションには、酒を飲んでいい気分になって、上司や同僚の間で、本音を言えたり心理的距離が縮まったり、あるいは、時には仕事の話が解決したり、そのようなプラスの側面があるのは事実だろう。

 

 

だが、会社の中ではどうか?昨日飲み会でワイワイ騒いで、心理的距離が縮まったからといって、今日の仕事で何か影響があるのか?

 

まさか、昨日は楽しかったからこの案件を進めることにしよう、などという管理職はいないだろう。 また、案件を進めるのに、飲みの場でなければ言い出せないということもないだろう。

 

 

もし、そういう切り出し方をしていたら、「なんでお前はこんな時にそれを言うんだ」「ドサクサ紛れの相談は戦略的な手続きとは言えないし、酒に任せて相談するなんざ姑息だ」と、余計に心象を悪くすることすらある。

 

 

これは、本当にある。 そうなると、進むものも進まない。

 

 

また、いつまでもだらだらと遅くまで飲み続ける日本人は、単純に体に悪い。 眠いし、二日酔いになる。それで会社休んだりしていては、もうビジネスパーソンとして、恥ずかしい。さらには、家族との関係がうまくいくのか、という視点も必要だ。遅くなって家事ができないと、妻の不満が溜まる。

 

 

このように、飲みニケーションと言われるものに、どれほどのメリットがあるのか、何でもかんでも参加している人は問い直してみるのもいいかもしれない。

 

 

要するに

  • その時に楽しい思いができる
  • 酔って気持ちいい
  • ストレス発散になる
  • 知らない人と話ができた
  • 秘密情報が入手できた

といったメリットがあるとすれば、逆に

  • 二日酔いでしんどい
  • 遅くなって妻との関係を損ねた
  • 付き合いとはいえ、時間の無駄だった
  • 気が大きくなって言わなくていいことまで言ってしまった
  • てか、行きたくねーし

などなど、ちょっとしたリスクが潜んでいるということも忘れない方がいい。

 

ちなみにウィキペディアによると飲みニケーションは次のように説明されている。

 

 

酔った勢いで互いが馴れ合ったり親密な会話ができるようになるということを目的として行われている。企業の中には飲みニケーションを行うということを奨励している所も存在しており、これを行うための手当を支給しているというところも存在する。だが一方で、飲みニケーションの場で部下に説教をしたり、行きたくないと思う者を強制的に参加させるということがパワーハラスメントであるなどと否定的な見方も存在する。

 

 

日本の会社では会議だミーティングだ、決められない人が集まってあーだこーだとやっている間、オランダでは、フューチャーセンターと言われる脳の働きに基づく場づくりに取り組んでいて、こうした無駄や非効率を根本的なところから見直していこうという取り組みが盛んだ。

 

 

(こちら、参考記事)

 

 

こういうことをやった上での飲みニケーションであれば、実にいい。

 

 

会社でギクシャクとストレス溜めておいて、飲み会では無礼講といってその場限りの宴を楽しむ。これって、叩いてさすったら元どおり、とか、病気になったら薬飲めばいい、とか、太ったら食事制限、とかそんな発想に近い気がするのだ。そうではなくて、叩かないでいい良好な関係が望ましいし、病気にならない生活習慣と、太らない適度な運動、こういうものを最初から予防的にやっていく方が絶対的に健全なわけだ。

 

 

飲みニケーションから、終身雇用型、年功序列型の日本組織はいつまでたっても変われない理由の一端が垣間見えた気がした。

 

 

個人の尊重、自由な生き方、好きなように生きる、働き方改革といった価値が叫ばれて久しいが、組織に入れば、そのようなものは単なる美辞麗句であって、個人を本当に大切にしている会社というのは、もしかしたらまだ少ないのかもしれない。

 

 

By Goro

丸裸になれ

人前でいかに自分を全てさらけ出すことができるか。

 

その上で、相手の警戒心を解きほぐし、本音を引き出すか。

 

もっと言えば、「お前となら仕事してもいい」と言ってもらえるか。

 

それができれば、人間関係において最強だし、仕事人として圧倒的な強みになるはずだ。

 

今、箕輪厚介さんの本「死ぬこと以外かすり傷」を読んでいる。

 

彼は、決して周りに同調しないし、常に自然体でぶつかる。

 

そして人の懐に飛び込んで仲間を増やす。いや、勝手に増えていく、のかもしれない。

 

もしかしたらその過程で嫌われてしまうことがあるかもしれないが、そんなことは気にしない。

 

仮面をかぶって好かれるよりも、自然体で嫌われた方がいい。

 

結果的に、その方が人からよっぽど好かれるし、実現できる仕事の幅もでっかくなる。

 

一方、一般の会社では、必ず上司の決裁が必要になることから、単独で外出先で勝手にコミットしてきたら、「独善的な仕事の仕方はやめましょう」とか、「組織で仕事しているんだから個人プレーは良くない」とか、「協調性がなく、チームの和を乱す奴」といった評価に繋がる。

 

つまり、組織においては、自分をさらけ出すことは悪いこと、と、評価される可能性が極めて高い。

 

小学生の時からそのような同調することが良いこと、という教育を受けてきたから無理もない。

 

だが、一度冷静になると、私生活の中で、そう思われたからと言って何の支障もないし、どうでもいい。心の底からそう思える。

 

特に仲良くもない知り合いの集団の中で、そう思われることにより失うものなど1つもない。全くない。本当にない。

 

では、なぜ仕事になると、こうした評価を恐れてしまうのか。

 

実際、このような評価を受けると、仕事が振られなくなり、できる裁量が減るからだろうか。

 

そしたら職場に居づらくなるからか?

 

給料が減るからか?

 

やりたいことがますますできなくなるからか?

 

このような発想をしている時点で、組織にしがみついているということであり、この考えは変えなければならない。

 

ちなみに、孔子の言葉に、和して同ぜず、というものがあるが、決して周囲に合わせることが良いこととされているわけではない。

 

正しいことをしたければ偉くなれ

 

これは正しいか?

 

 

たしかに大組織の中で常に反発して戦っていても、独りよがりで勝てるわけはない。潰されて終わる。

 

だったら嫌なことを飲み込んで、我慢して我慢して上司の機嫌をとって偉くなるというのも1つの考え方である。

 

でもなんだか、これもひと昔前の考え方で、少し古い感じがする。終身雇用が前提の哲学かな、という気すらする。

 

踊る大捜査線だし。

 

とはいえやっぱり組織の中で一人で戦うのって、ものすごいエネルギーが必要で、そのこと自体が何も生み出さないとすれば、戦う意味があまりない。

 

ならば戦わなくていいように辞めるか?

 

正直、答えはわからない。

 

しかし、箕輪さんの行動原理から言わせれば、おそらく、結果で示せ、ということだろう。

 

あーだこーだとウダウダ言ってないで、さっさと動いて数字で結果を出して、オンリーワンになってしまえ、そしたら、あなたに反対する人間はだんだん減ってくるし、お前がいうならしょうがない、と言って動いてくれる味方が増えてくる。

 

そのためにやるべきこと、そこを考えるのだ。組織のダメなところ、上司のダメなところを指摘するだけの評論家になってはいけない。

 

行動と結果で示し、あなたの発言が正しいと思われるようになるまで、とにかくやれ!

 

今いるところで頭角を現せない者が、環境を変えたからといって何者にもなれない、その可能性が高いということだろう。

 

By Goro

夜な夜な繰り広げられる密かな会話

お疲れ様〜、今日はどこに行ったの?

 

うん、ちょっと聞いてよ。

1時間半くらい走って道路沿いに停めてさー、なんかワラビを取ってきたみたいだよ。なんでも、斜面のところの畑を焼いたあとに生えてくるらしいよ。袋いっぱいに集めてたみたい。

 

その後は、漁港のある小さな町まで30分ほど走ってさ、小さな山にタケノコ狩りに行ったみたい。

 

結構急な勾配で、登り道はない所。登山で言えば難所さ。枝を掴んでロープ使いながら上がっていったよ、竹やぶの中に。

 

雨の後だったからね、いっぱい生えてると思ったんだろうね、「雨後の筍」とも言うし。

 

ところがだ、どうも収穫はそれほどでもなかったみたい。2時間くらい竹やぶの中で過ごしてたよ。でも持って帰ってきたのはたったの3本だけ。とはいえ、それはそれは立派な若いタケノコだったさ、全身が土に埋まってたんだろう。その日のうちに湯がいておけば簡単に食べられるとっても新鮮なやつさ。

 

その後はビーチのある海に行ったよ。この町は、山も海もあって最高だな。でもちょっと走り疲れちまったぜ。

 

そこで子供達は貝を見つけたり生き物観察したりして、風が吹いてまだ冬の冷たさが残る海に膝くらいまで入ってね、とっても元気に遊んでたね。

 

大人は、ここでも食べ物を収穫してたよ。なんだと思う?わからない?

 

答えはワカメ。

 

そこいらにゆらゆらと生えてるのさ。でもね、浅いところに生えてはいるけど、取りに行くには大人も膝上くらいまで海に入らなければならないみたいなんだ。子供と違ってね、大人は寒さに弱いだろ?それでも、今夜のご飯とかなんとか言いながらとってもよく働いてたよ。

 

そこで仕事の原点を見たって感じ。

 

うん?わからない?

 

だってほら、考えてみなよ。昔、会社とかなかった時代、みんなその日に食べるものを探しに行ってただろ?そのことさ。

 

狩りができる男が優秀。

今で言えば給料の高い奴が優秀とかそんな感じかな。一概に言えない気もするけど、あくまで例え話としてね。

 

いずれにしても、男たちは家族の喜ぶ姿を想像しながら寒いのを我慢してワカメを収穫してたんだと思うよ。

 

多分、タケノコの時もそうだったのだと思う。なかなか見つからないけど、なんとか自分が見つけたい、手柄を立てたい、頼りになると思われたい、人が見つけたタケノコをもらうよりも、自分が見つけて家族に食わせてやりたい。妻にいい所を見せてやりたい。

 

ここにある心理ってのは、人は単に食べ物がある状態で満足するのではなく、達成感を感じたり、自己承認を求めたり、そういう感情が混ざっているってことだよね。

 

人はパンのみにて生くるものに非ず

 

昔の人はちゃんと真理を突いている、よく言ったものだ。給料が安定した会社にいてもやりがいや自己成長が感じられない職場ならば方向を変えた方がいいのかもね。だって、ただパンに釣られてる時間を捧げてるってことになるだけだから。

 

人生の時間は有限だ。時間を切り売りしている間は何者にもならない。このことはみんなわかっちゃいるけど、じゃあどうすれば現状を変えられるのか、そこが見えてる人は多くはないよね。

 

てか、見えてから行動している人はすでに遅くて、何かを掴んでいる人は、見える前に行動したからこそライバルのいない場所で何かを手に入れることができたわけ。見えるまで待っていたら、他の人にとられてしまうということだろ?これ、理屈ではすごくシンプルな話で理解しやすいよね。

 

虎穴に入らずんば虎子を得ず

 

やっぱり、昔の人の知恵はすごい。ぴったりの言葉がたくさんあるんだもの。同じことを考えていたってことだよね。もう最高だな。

 

 

ただ、見えないものを掴みに行く勇気と行動力はやっぱり生半可なものではないんだよなー。行った先が崖っぷちかもしれないし、砂漠かもしれない、あるいは、何もないのかもしれない。単純に怖いだろ、見えない所を行くのは。

 

死ぬもしれないという恐怖を克服するのはやはりたやすいことではないってことだな。

 

 

ただひとつだけ言えるのは、行かないとわからないということ。

 

行かなければ現状のまま、みんなと一斉に走って止まっての繰り返し、その辺を走る車と一緒さ。行き着くところはみんなと同じところ。

 

これは自分の意思で行くのではなく、敷かれたレールを走っているだけということなので、切り開く苦労、産みの苦しみというものがないわけさ。だからめっちゃ楽。

 

そしてこうしていればほぼ食いっぱぐれることはないからね、少なくともこれまでの時代の中では。そりゃーリスクをとる方が頭おかしいって思われても仕方がない時代だったんだと思うよ、多分。

 

だが、今の変化のスピードがとてつもない時代にいつまで前の時代の考え方が通用するのか、そこはやっぱり、よくよく考えた方がいいし、皆と一緒であることがリスクになってくるはずだ。

 

社会保障もあてにならないし、定年後も稼いでいく必要がる。

 

話も長くなるので、この話はこの辺にしとこうか。てかすごい脱線しちゃったよ。

 

というわけで、結構走って疲れたってわけ。で、君はどこに行ったの?

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相互理解不可能な相手との関わり方

●なぜそこで怒る?

 

●なぜそこにこだわる意味がある?

 

●話をすり替えて人格攻撃に転じてないか?

 

●それはただのあなたの思い込みなだけではないのか?

 

 

組織で仕事をしていると、こういう人達に出くわし、仕事が進まなくなることがある。

 

これは一般論としても、程度の差こそあれ、ある程度当てはまる事があると思う。

 

こと、今の私の職場に関しては、マックスに当てはまるから辛い。

 

その相手が、非常勤職員の中国人のおばさんだからまた厄介だ。

 

日本語は上手だが、はっきり言って、議論して細かいところを論理的に説明しても意味がない。

 

途中で必ず話がわけわからなくなる。本当に通じない。

 

言葉の問題もあるが、そもそも、責任を取る必要のないポジションであり、かつ「キレるおばちゃん」以外の何者でもなく、言いっ放しの批判ばかりを繰り返す。

 

関わると怪我するタイプの危ない人だ。

 

まさに、単に感情をぶちまけているだけ、批判しているだけ、自分の思い通りにしたいだけ、である。

 

そして、上司もこの人柄をわかっていて何の手当もせずに放置する。職員が苦情を言っても、揉め事を避けるためにこの中国人に時には迎合し、組織、チームで仕事しているんだから、と職員をなだめる始末である。

 

そして、あろうかとか、職員側に協調性がないと評価してしまう。何かの悪巧みに陥れられ、悪意ある工作にはめられた気分だ。

 

ある意味、中国人のおばちゃんの引かないしつこさ、相手をはめてでも思い込みを実現しようとする執念、喧嘩では絶対に謝らず必ず相手が悪いと確信する潔さ、全てあっぱれだ。

 

凄いとしか言いようがない。皮肉を100万%込めて、尊敬に値する。

 

だが、はっきり言って、普通の会社員がこんな人に合わせて仕事をすることは不可能と思われ、この人を尊重しなければならない状況が続けば必ず病む。

 

そして、お客さんに勝手なことを思い込みで伝え、通訳以上の越権行為を平然とやってのけ、交渉の際にも手の内が相手に渡る可能性があり、周囲の正社員の士気を下げる、いいことは1つもない。

 

スパイを雇っているようなものである。

 

危険だ。

 

ところがどっこい。中国のお客さんを相手に仕事している関係上、このおばちゃんをは必要不可欠、という謎の立ち位置にある。だから非常勤職員という立場で人事異動もせずに長年居座り、周囲の職員は異動で変わっていき、いつのまにかその中国人が一番古株という奇妙な現象になっている。

 

そして中国の相手の立場に立った考え方と発言しかせず、こちらの会社側の意見や仕事の進め方や職員の決定を軽視している。

 

さて、ここまでさんざんに愚痴を書いてきた。

 

本当に尽きない。

 

嫌いすぎる。

 

ただの発散のための見苦しい記事で申し訳ない。

 

では、こういう人とどうやって仕事上のチームとして関わっていくか、という本題だが、残念ながら、私は答えがないと思っている。

 

不可能。

 

だから、無視して、さんざんに悪態をつかせて、この人の悪行が放置できないレベルにまで達するのを待ち、一気に攻勢をかけて辞めさせる。

 

モラハラで訴えてやる。

 

それ以外に方法はない。

 

機が熟するまでの我慢だ。

 

By Goro

隙間時間の活用

今朝

 

確定申告で税務署に行くということで、1時間の有給休暇を取った。

申告書類はすでに提出していたので、納付手続きのみ、10分もかからず終了した。

 

さて、その後すぐさま出勤すると、1時間どころか15分の遅刻で済むことになる。

それで仕事をさっさと済ませても良いけども。

 

しかし私はあえてそうせず、カフェで過ごすことにした。

そしてこの記事を書いている。

 

この予期せずしてできた30分と、いつも通り出勤して残業したりした時の30分では、何かが違う気がした。

 

つまり、誰もが仕事している間の時間って、ある意味、かなり希少価値が高いと思ったのだ。

 

もちろん効率よく仕事を済ませて時間を作ることも必要だし良い心構えだ。そして家族と過ごす時間はプライスレスに違いない。

 

しかし、それと同じかそれ以上に、あえて人と違う行動をとることによって感じることのできる価値、そして、その時間に何かを生み出そうとする思考って、めちゃくちゃ大事なひと時だと思うんだ。

 

そこで何かをアウトプットしてみることはそれ自体が(自分の中で)何らかの価値を生むし、逆に何かをインプットする時間にもなり得る。

 

もちろん、ただの時間の無駄遣いと見ることもできなくはない。実際、本業はその分遅れることになるかもしれないからだ。

 

それも1つの真実ではある。

 

しかし現実世界は多面的なものだ。あなたにとっての真実は私にとっては不確かなものだし、そもそも何の関係もない。

 

会社のムダ会議、単に同席を求められたムダに長い打合せ、決める事のできない上司との相談時間、そのようなことを回避して作り上げた隙間時間の30分は、やはり、2倍も3倍も貴重だ。そこに疑いの余地はない。少なくとも私にとっては真実だ。

 

日常の中でも、たまにはあえて休んでみて、普段と違う行動を取ることから気づくものが必ずある

 

その時間に何かを考えてみることから生まれるものも必ずある。

 

それが大きなものか小さなものか、あるいは優れたものかそうでないかなどは関係ない。

 

ただ、人生という大きな長い川の流れにおいて

 

潜ってみたらこんな魚がいた

とか、

 

こんな小石が踏ん張っていたのが今まさに水量に抗えずに流された

とか、

 

葉っぱが流れてきたけど周りに木がない、どこから来たのだろうと山頂を仰ぐ

とか、

 

人生(川)で起きていることのほんの小さなことに気づくきっかけになるかもしれない。

 

それが何を意味するか、その時点で知ることができなくでも、記憶のどこかに残り、後になって思い出すこともできる。

 

日常は平坦で日々の出来事など忘れがち。

 

そのように考えることで、毎日を精一杯生きるということの1つの答え、というと大げさだが、1つのヒントになるのではないだろうか。

 

そういう思いで、この記事を書いた。

 

所要時間は15分。

 

書き始めた時の思考では、記事全体の内容を想像もできなかったが、こういう思考が自分の中にあったのか、と気づくことができた。

 

さ、今日も一日精一杯生きることにしよう。

 

By Goro

国際感覚って何だ?

 

用事で上海に行った。

 

観光目的ではないので、今回はいわゆる観光地にはほとんど行けていないので、この街に対する見方はあくまで部分的で、不完全なものではある。

 

上海はめちゃくちゃ都会だけど、一本裏通りでは雑多な生活感の溢れる人々がローカルフードを楽しんでいたりする

 

このギャップが上海の面白いところのひとつ、てか、アジア全般のこの雰囲気が私は大好き。

 

今回散策してみた南京東路は、東京でいうと銀座みたいな感じで、インターナショナルブランドのお店が軒を連ね、上海感、アジア感がほとんどない。

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いや、この発展著しいアジアの大都市に共通する洗練された街並みや人口の多さ、とかなんとかを考えると逆にアジアらしい側面と言えなくもない。だが、少なくとも、自分の描くアジア像とは少し違う。

 

旅の目的

 

さて、最近、旅する目的ってなんだろうと考えることがある。

 

知らない街を歩いて知らない人と交流し、何か自分の中の価値観のようなものが広がる感覚、こういうものは旅の大事な部分であると常々思っている。

 

見たことがない人よりも見たことある人の方が視野が広がる。住んだことのある人ならなおさらだ。

 

言うまでもなく、日本は島国。

 

日本人は小さな頃から全員が右に行けば右に行くことが良いこと、であるかのような教育を受けてきた。

 

そのような純粋培養の日本人が、仕事でちょっと海外に出張に行くようになったからといって、「国際感覚」が身につくと考えるのは間違いだろう。ただ海外旅行慣れしているにすぎない。住んだことのある人には及ばない。

 

国際感覚とは何か

 

明確な定義は存在しないのだと思うが、ネットの辞書によると、

 

国外のさまざまな文化や価値観を知り、自国内に限った観点ではなく国際的な観点からものを考えることのできる感覚。自国の常識に囚われず、より広い価値観や考え方で物事を捉えるセンス。

 

とされており、引き続き抽象的だが概ねこの通りなのだろうなと思う。

 

旅をしただけで知ってしまっているかのように勘違いをして、自分は国際派の人材だ、とか、国際感覚を持っている、というような人がいはしないか?

 

そういう人は、まだ外から日本を見たことにはならない。

 

どうしても出張では気づけない部分、すなわち、仕事から自宅に帰った後の飯作り、食材の調達、休日に何をしようかと考える時間、ローカルコミュニティと交流する機会、ローカルスタッフとの会話、挙げればきりがないが、こういう時間の連続性から生まれる微妙な感覚が海外生活にはある。

 

最近出張するようになった程度の人間には、このような感覚が存在することにさえ気付くことができないのである。

 

そしてあくまで日本式の考え方で仕事を進める。

 

海外の客と取引をやると、なぜ言ったことをやらないのか、とか、なぜ質問しているのに回答してくれないのか、とか、なぜ何も決まっていないのに放置するのか、とか、なぜ中国を日本より重視するのか、とか、日本人には理解の及ばない非常にもどかしいことが起こる。

 

そこを日本式でカバーしようと(部下にカバーさせようと)するから無理が生じる。

 

そもそもいわゆる国際感覚がない人は、ちょっと誤った形で日本が世界一素晴らしい国だと本気で思っている。中国よりも優れていると思っていて、東南アジア諸国を下に見ている。

 

もちろん、日本が美しい国であることは否定しないし、その通りである。

しかし、いろんな行けてないところがあるのも事実で、日本方式は世界の中ではかなりの得意な部類に入るだろう。

 

海外に駐在する人たちの間ではこういう言葉が存在するらしい。

 

OKY

OKO

 

お前がこっち来てやってみろ

お前もここにおったやろ

 

この言葉、自分も海外駐在の経験があるのでよくわかる。

 

と同時に、一度でも外から日本を見た経験のある人間からすると、日本の組織で細かいどうでもいいことをうだうだと言って一向に進まないことなどを見ているとげんなりする。

 

そして、会社として海外に人材を出し、戻ってきたときの経験に基づく価値観を大切にしようとしない風土にはげんなりする。むしろ反逆児のように潰されるはめになる。

 

日本のこういう部分は、はっきり言って終わっている。

 

日本に今後の劇的な発展はあり得ない。沈没していく国であることを認識した上で、そうならないように1つ1つの組織が、変わっていかなければならない。

 

外からの眼を持つ人間を排除するような組織に未来はない。

 

By Goro

誰も読まないブログに価値はあるか

ちょっと前にブログを始め、毎日とは言わないまでも、週に2〜3記事程度は書こうと努めてはいるが、どうしても時間が取れず、あるいは書く内容が定まらなくて更新できない日もある。

 

当然、更新頻度が減れば、アクセスの数やそのチャンスは減ることになるだろう。

 

そもそも、更新したからと言ってハテナブログのホームで、どこかに「新着」とかって出てないかもしれないので(出てるの?)、機会損失の恐れは全くないのかもしれない。

 

そこは初心者なのでよくわからない。誰か色々と教えて欲しい。

 

問題は、誰も読まないブログをいつまでも書き続けることに価値があるのか、という事。

 

私の見解は「価値がある」である。

 

アフィリエイトやってる人からすると、アクセスがない=お金にならない=価値がない、という結論だろう。

 

しかし、そもそも「あなたも稼げます」という情報商材には価値がないという事は別の記事でも指摘した通り。そんな記事なら書いても書かなくても価値はない。

 

むしろ、稼げますという誘惑に駆られてお金を払ってしまう人が生まれる恐れがあると言う点で価値はマイナスですらあるだろう。

 

それはそれとして、ではなぜ毎日ブログを綴る事に価値があるのか。

 

自分の中の考えを文字にしてアウトプットするという事は、考え方を整理する作業に他ならない。

 

考えの中に抜け漏れがあれば調べて補強することができる。

 

また、ぼやっと感じていた事などをぎゅっと集めてクリアにできる。虫眼鏡で光を集めるようなイメージに近いかも。

 

もちろん、常に読者が沢山いる状態であれば、書くことのモチベーションになり、コメントなんかももらえれば双方向のコミュニケーションが生まれて、さらにやる気が増すだろう。

 

いずれは多くのアクセスがあるようなブログに育てたいとは思いつつも、今は、下積みの時だ。

 

このブログは生まれたばかり、今は、基盤となるブログの方向性自分のスタイルなどを固めていくステージだ。

 

だが、アクセス数云々よりも、書くことに価値を見出し、日々アウトプットの練習をする事、そして、いろんな記事のネタを探す癖をつけること、こういうことを積み重ねていけば、自分の中に蓄積される情報量は侮れないはず。

 

だから今日も、誰も読まないブログを書き続けよう。

 

ちなみに、今回の記事はバス停でバスを待つ間の10分の間に、一筆書きで綴ったものだ。

 

まずはいいことを書こうとするよりも、思いついたことをメモする感覚で綴っていくと、時にはいい記事が書けるようになるかもしれない。

 

それまでの辛抱だ。

 

By Goro